平塚らいてうを学ぶ会 呼びかけ号

平成2年7月15日 平塚らいてうを学ぶ会
発行人 大橋幸雄
(掲載者註:発行所・電話番号 略)

随筆 小貝川通信 1944年(昭和19年)
聞書き 平塚らいてう・奥村博史 ご夫妻の思い出

随筆 小貝川通信 1944年(昭和19年)

 このごろ、東京の友人からあなたはほんとにいい時に率先疎開されたものだ、先見の明があったとうらやましく思っている、そちらにどんな家でも(場合によっては部屋でもいい)貸してくれるところはないものか、ぜひ世話してほしいというような手紙を受け取った。
 なにもわたくし自身に先見の明があったわけではないが、ある神示を信じて今日の世界戦争を十数年前に想像し、帝都の空襲に備えて、この茨城の小貝川べりの丘に、早くから小さな家を建ててあった姉が、まだ大東亜戦争のはじまらない前から、ここに老母や幼い孫たちを護って移り住んでいたが、いよいよ大東亜戦争がはじまると、その姉は、わたくしたち二人にもしきりに移転を勧め、自分の家のすぐ近くに手ごろな家を借り入れてまでわたくしたちを迎えてくれたのだった。昨年の春、緒戦のあまりにも華々しい戦果に国をあげていくぶん酔い心地の時であったから、まだ姉の言うような敵機の帝都空襲など信じきれないものがあったが、とにかくわたくしたちは、子供らがすでに巣立ってしまった際、たとえ自分の家があるにしても、なんでも東京に住まねばならぬ必要はいちおうなくなった人間だし、時局から田舎に引っ込んで、人手を使わない、そしてできるだけ自給自足の生活を実行することが、せめてもの御奉公であろうかと考え、晴耕雨読というような文字を心に浮かべながら、紫に霞む筑波山をのぞんで、鍬を持つ自分、大利根の静かな流れに降り注ぐ雨を窓近くききながら古典に読み耽り、神代に還る自分を想像したり、また老齢の母の身近にあって、姉とともにつかえることのできる幸せを思ったりして、ついに移転を決行したのだった。
 今月でちょうど満二年になる。現実の田舎生活は、想像以上に、骨の折れる、多忙な日々であるが、このごろは仕事もよほど身に付き、相貌までめっきり、田舎婆さんになってきた自分にわれながら驚くほどである。
 そして今わたくしは自分でもほんとにいい時にここへきたものだったと思っている。敵前疎開などといって、今となってあわただしいおもいで、いろいろ心を悩ましている都会の友人たちをおもうと同情に堪えない、なんとかして適当な家を、この際見つけて迎えるのが、一足先に田舎に住みかえたもののつとめだとは思うけれど、といって、田舎にも空いた家や部屋がそう容易にあるものではない。どこの家でも多少の余裕のある家は、みな都会の親類縁者が来ることになっていて、すでに荷物がたくさん着いている始末なのだから。
 実はそういうこのわたくしも、いま住んでいる家を、今月いっぱいで明け渡さねばならなくなっているのである。家主はこの土地の人ではあるが、東京である化学工業の小さな会社を経営しているので、その会社の行員たちの修練道場に、この家と土地とを当てたいというのだが、家主の家族たちもむろんここに疎開したい考えがあるからであろう。畑には今、えん豆、蚕豆、ほうれん草、小松菜、葱、大根など、わたくしたち二人のこれからの食糧が作ってあるのだし、山羊は子供を産んだところだし、今ごろ追い出されては迷惑しごくだが、これも時局がらやむをえないと思い返して、先ごろからしきりに移転先をさがしていろのだ。ついこの間も、川向うの大きな農家に十畳三間とかの蚕室が空いているはずだと教えられて、さっそく行ってみると、もうちゃんと疎開者が住んでいる。
ー以下略ー
『平塚らいてう著作集』より (大月書店刊)

聞書き 平塚らいてう・奥村博史 ご夫妻の思い出

 語り 中村三佐男氏 平成2年6月2日中村氏自宅にて

 「らいてう」と言ったって、この辺では、誰も関心がなくてね。いたのが六、七年間くらいだし、若い者がふえるんでー。そんなことから、昭和四十五、六年ごろでしたか私がPTAの役員のはしくれをしていた折、広報にらいてうさんのことを紹介したのが、おそらく地元ではじめてじゃないですかね。「PTAだよりは永久保存だし、小文間の歴史に残る人を書いておかなきゃ」と思ったんです。それをもとにして、まとまらねえでしょうが語らしてもらいましょう。

 ここらは取手市に町村合併した昭和三十二年までは、小文間村戸田井だったんです。東に小貝川、南に利根川が下ってくる合流のデルタ地帯が戸田井なんです。舟運の盛んな江戸時代から明治中期までは、物資の集散地でもあって、ずいぶん栄え、河口の商業地で醸造業、米屋、床屋、炭屋、豆腐屋……などがありました。
 大正の終わりから昭和の始めのわたしらが子供の時分にも、まだ川蒸気船がぼこぼこ上り下りしていてね、時折高瀬船も往来があったね。相馬霊場八十八ヵ所めぐりも盛んで、戸田井と言えば伊勢屋の船宿、八十八ヵ所めぐりの遍路宿ということになりますが、私の祖先は、伊勢屋さんの地続きにいて火災にあい、そのあと、ゆえあってここにはおりませんが、永田さんという方の土地の一部も借してもらい、また、永田さんの屋敷もしばらく管理していた時期があるんです。
 たぶん昭和十五、六年ごろだったんでしょうか。らいてうさんの親と姉さん一家が別荘をたて、こっちへ来ておられました。
 この姉さんたちがおいでのところは、川口山と土地では呼んでいましたが、のちには”別荘”と呼ぶようになりました。それは、従来の土地の名家だった木村定次さんのほかに二、三の代がわりはありましたが、当時大政翼賛会の会長でもあった文化功労賞に輝く小森七郎氏なども別荘をたてて住んでいたからです。
 これは、あくまで私の推測ですが、木村さんは、大本教の有力な布教者でもありましたし、戸田井にはその会所もありました。小森さんやらいてうさんのお姉さんも、熱心な大本教信者で、その関係で木村さんを頼ってこられるきっかけになったんじゃないでしょうか。そして、姉さんがらいてうさんに「そのうち、戦争で東京が焼野原になるから、今のうちに来ていた方がいい」ってらいてうさんを呼ばったわけなんだな。むろん住んでもいい場所というともあったんでしょうよ。
 それでは、住む家ということから、永田さんの空き家を貸してほしいということになった。家で管理してたもんで、持ち主に話をしてほしいということで、らいてうさんの姉さんが来られて、うちの親父がかけあいに行ったら 「そりゃあたいへんだ。平塚らいてうって言ったら、日本でもこの人にかっつくものはねえ。たいへんな人物だぞ」というわけだったんだね。それで、向うは知ってて、通りよくて、それで貸しましょうということになった。それからは、平塚らいてうという偉い文学の大先生が来られるそうだなと噂が大変だった。

 二階家と平屋の二軒建っていましたが、らいてうさんは二階家に移ってきたんです。

 らいてうさんがこられた昭和十七年には、私は旧制中学の一年生でした。おいでになる前から噂が高くね。どんな方だろうと思ったんですよ。それがね、わたしが家の留守をしているとき最初に訪ねて来られたんですよ。「お父さんがおいでになりますか」って。
 女性としては標準の体系だったけれども、和服姿にめがねをかけて、気品高いおばあさんというのが第一印象だったですね。端麗な容姿に理智的な眼、そして透るような声で何事も物静かに語られるのでした。
 らいてうさん、お母さん、お姉さんが来られてから、戸田井の風景は一変したね。お公家さんの一族が来たようだった。よく、土手など散歩したり、季節の野草摘みをしていたが絵をみるような美しい光景だったね。
 うちの姉などは泥んこになって野良仕事をしてたもんだから「ああいう人たちゃあ、どういう暮らししてんだべ」ってうらやましがってましたよ。らいてうさんのお母さんを土地の人は「皇族の乳母だったそうだ」っていう評判もたって。
 当時の戸田井は、らいてうさん一家が来られてから、はなやなかな文化的な土地に見られるようになりましたね。
 夫君は奥村博史さんといい画家でした。奥村さんは奥さんのらいてうさんよりずっと長身大柄で、画家特有の風体がありましたね。それに若い女中が一人、名は菊美さんといいましたが、しばらくして女中さんは立ち去られ、ご一家はお二人で長い間この地に住まわれたのでした。
 そのころは、農家もこの辺りは少なかったし、一番家が近所だったことや、家を世話したこともあって、農作物は、いまでいうスーパーがわりに来られてお持ちになったですね。
 らいてうさんも、馴れない菜園づくりもしておられました。山羊の乳と玄米食で栄養源にしておられました。このあたりは、河原や川土手なので山羊を飼うにはかっこうの場所でした。わが家にも玄米食をすすめに来てくれ、パンフレットをおいて行かれました。それをわたしも読んだ記憶がありますが、「白米は毒です。雀に三日白米だけを食べさせると死にます。玄米には、あらゆる成分がありますーー」。といったようなことが書いてありました。きっと、ほかの人たちにもすすめておられたのでしょう。山羊は”雪ちゃん”と呼んでいました。ご夫妻はよく乳をしぼっていました。夕方、お姉さんのところにしぼった乳を器に入れて持っていくのをよく見かけたものです。「僕がこの間汽車に乗ったらね、隣の席の人が僕を”雪ちゃん”といった」と奥村さんは僕に笑って話したこともありましたね。そしたら、雪ちゃんのことを雑誌に「雪ちゃん」と題して寄稿もしていました。
 またご一家は野鳥の会というのに関係していて「小貝河畔の小鳥の声」として会誌に寄稿され、小生にも見せてくれたことがありました。
 そのうち戦争が厳しくなって、永田さんが疎開しなくちゃならなくなって、今度は「出てくれ」という話になった。
 持ち主がうちの親父に話してくれっていうわけだけれども、親父にすれば「すばらしい人だから入(え)れでけろ」っていうわけで、口きいたんだし、区長もしてんだから困ったわけだ。そして、戦争は苛烈になるし、縁故や知己を頼って疎開者はくるし、空き家なんかどこにもなくなった。らいてうさんも北小文間の方や川向かいの布佐のあたりまで探し、ことわられて、いよいよん時は、廃屋のようなところにまで住まわれる決心をしていたようでした。
 しかし、家主も、人道的なこともあるので、結局、永田さんは平屋に住み、二階家はらいてうさんがおられることを承諾したわけだけれども、今度は、井戸水も使えない、便所も使えないという具合になって、水は毎日わたしの家にもらいに来たし、便所も畠のはじにあった粗末な私の家の便所をおつかいになったんです。らいてうさんの記録にもあるそりゃあひどいものでした。
 そんなわけで、うちには毎日のように来られた。農産物もよくお持ちになった。
 らいてうさんのご夫君は、よくカンバスに向かっていました。新緑の羽根野山の満月が静かに影映す小貝の春の夕の状景、また真赤な夕焼けに暮れ行く秋の情景、利根川の夕景、小貝川と利根の合流点の絵。時には望遠鏡でのぞきながらの写生などよくみかけたものです。どういうわけか、博史さんはあまり出歩かなかった。出不精だったのかな。
 わたしは学生だったせいか「あんただけに見せるから」といわれ、気易く部屋にあげてもらい、画作品の全てを見せてもらったことがありました。それは風景の油絵やら果実の水彩画やら、お嬢さんが腰かけている肖像画や半紙に書いた墨絵など様々でしたね。でも数はそう多くなかった。
 時折、ご一家のお部屋に招かれて話を聞いたり、いろいろ見せてもらう事を楽しみにしていました。部屋中に本が並べられ、貴重な写真類が沢山ありました。文豪や皇族などと一緒におとりになっているもの、また日本文化人会とかの会長をしていた記念など、私には信じられないものばかり。その中に奥村さんが演じた演劇「青い鳥」の舞台写真がありとても印象的だったのを覚えています。奥村さんは多芸の人で、若いころ俳優などいろいろな方面を手がけた方のようでした。
 絵と言えば、わたしのところに奥村さんが描かれた絵があるんです。これは、兄の肖像画ですが、これにはこんな因縁があるのです。兄が横須賀で建具職人の修業中徴兵にとられて、フィリピンに従軍したのですが、戦死したのです。戦後にそれがわかったのですが、葬式写真がないんです。奉公したてころの写真があって、年は違っているけれども、それを拡大して描いてもらいたい、と親父がらいてうさんを通して奥村さんにお願いして、四号の油絵を描いてもらいました。それを、葬式の写真がわりにしたわけですが、この土地に残されている唯一の油絵かとも思っています。
 わたしも終戦のころは二十才くらいでしたからそれなりに新しい夜明けがやってきた社会の動きも分りまして、「日本婦人に参政権を。その先覚者は平塚らいてう女史である」と新聞が毎日報じたのも目にとめていました。ある人は、ラジオが「平塚らいてうさんは今どこにいますか。聞いていましたら、すぐに東京へ出てきてください。」といっていたのを聞いたと話していました。
 終戦二年後、らいてうさん一家は帰京されることになり、わが家にらいてうさんご自身で別れに参られました。その時もわたしが留守番をしていてあいさつしたのですが、来られた時もそうであったので、わたしはらいてうさんに運命的な出会いのようなものを感じています。
 お別れのとき「こんなものでもお役に立てばー」と、どっさり文芸雑誌や総合雑誌、わたしらなどには及ばない高尚な詩、和歌や論説などの本を置いて行かれました。それらは、いまどこにあるか。家の移転もあったりして所在が知れないのは残念です。

Bibliography

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