平塚らいてうを想う 中村三佐男 第三回ビアンの会二〇〇〇年記念

平成12年7月14日
主催 ビアンの会
共催 取手女性の歴史とこれからを考える会
後援 取手市 女性と子どもの課

あいさつ
平塚らいてうとその一族達が暮らしていた頃の取手・戸田井の戦時下の回想と今
 一 平塚らいてう一族との出会い
 二 昭和十七年四月中旬の米空母機 日本本土奇襲攻撃以後の当地の模様
 三 ミッドウエイ開戦と、ガダルカナル決戦
 四 サイパン失陥頃からの世相
 五 本土空襲時の追憶
 六 本土決戦態勢の頃
 七 新しい時代の夜明け
 八 平塚らいてう一家東京に戻る
 九 平塚らいてうさんへの思い出
プログラム

あいさつ

 女性解放運動の先駆者、平塚らいてうの、「元始 女性は実に太陽であった/真正のひとであった」で始まる「青鞜(せいとう)」の発刊の辞(1911年)に、彼女の信念と行動が集約されています。らいてうは、他の光によって輝く「月」ではなく、自らが光を放つ「太陽」の存在にと、訴えました。決して”泣き寝入り”するな。学べ、主張せよ!との熱い思いが伝わってきます。
 女性は、”地域の太陽”。太陽が昇れば周囲も明るくなり、草木も生育する。母親が生き生きしていれば、その喜びは波動となり、子どもも家庭も元気になるものです。
 らいてうは1886年(明治19年)、東京に生まれました。第二次大戦中から戦後までの6年間、姉が移り住んでた<ママ>取手市小文間(おもんま)に画家の夫とともに疎開。小貝川のほとりに立つ、景観美に包まれたその家を、フランス語の「トレビアン」から取った「眉案<ママ>(ビアン)荘」と名付けました。地域の人々との交流を大切にし、自給生活の傍ら、読書や文筆活動を。戦後は婦人団体連合会長を務め、婦人・平和運動に力を注ぎました。
 「婦人参政権行史」、そして新憲法公布とともに、「戦争放棄」「男女平等」「両性の合意のみよる<ママ>結婚」など、願いは次々と実っていきました。
 2年前、らいてうを顕彰する目的で、取手市の主婦ら有志により「ビアンの会」が結成、微力ながら活動しています。いよいよ、新世紀。「女性の世紀」の開幕!太陽の輝きを地域に、家庭に、と走り抜きたいと思っております。
ビアンの会会長
水上鞠子

平塚らいてうとその一族達が暮らしていた頃の取手・戸田井の戦時下の回想と今

一 平塚らいてう一族との出会い

 ここは利根川と小貝川の合流地取手市大字小文間戸田井である。普通の農村と違い、地理が示す様に昔は利根水運の停泊地として下総の国戸田井として名の知れた当地方の小宿場町であった。当家はその南端の片隅でただ一軒、土地の専業農家であった。私はそこで生まれ、この土地の人々は利根と小貝と共に暮らしてきた。
 私が小学校1年生の時、北支事変、つまり、櫨口橋事件<ママ>が勃発した。戦火は際限なく拡大し、今日も明日もと村の若者が出征した。出征兵士の見送りは、小学生の役目であった。日の丸と万歳の声で送った。戦局は泥沼化し、先の見えない様相となった。そして4年たった。支那の蒋介石は重慶の山奥に立てこもり、アメリカの援助を得て徹底抗戦の構え。日本の感情は次第にアメリカへ傾斜していき、アメリカが悪いのだと、雲行きもだんだん悪化していった。そして世間的になんとなく昭和16年頃、日米は開戦するそうだなどの噂が流れる様な事態になっていた。その噂どおり、昭和16年12月8日、日本はハワイ真珠湾を強襲し、日米は開戦し、運命の太平洋戦争が始まった。私は小学6年生であった。
 戸田井の利根川と小貝川の合流地点に川口山という小集落があり、そこに木村貞次さんという大本教の高名な家があった。そのあたりは、この辺の名だたる景勝地である。そこへ16年の暮れ頃から新住宅が2軒建てられた。1軒は平塚さんといい、もう1人は小森さんといった。ご両人とも大本教の信者で、世界大戦、東京全滅の教祖の予言を信じて、早々と疎開して来た人達だった。平塚さん一家は、17年の春の頃入居され、この地での新生活が始まった。当時はスーパー等ある訳ではなし、日々の生活用食料品類は、最寄りの農家の当家で賄い、そして懇意となった。平塚家の主人は平塚米次郎氏といい、奥様は平塚らいてうの姉様だった。暫くして、平塚の奥様が当家へ来て「私の妹ののぶ(らいてうの事)がここが気に入って、ここヘ住みたいといいますので、あそこに空き家が一軒ありますがお宅で管理されているとの事ですが、心配していただけませんか」と来られた。その空き家とは、そこに広い空地を有する永田さんという人の別荘であった。昔、私どもの知らない頃、この地を離れた人のもので、それに隣接している当家で委託管理していた。親爺は、早速平塚さんの依頼を空き家の持ち主しに打診に行った。先方は世間士なのでらいてうと聞いて「らいてうなんて言ったら日本一だぞ。先日の・・会でも会長だし」等、とおりが良くて快諾。親爺は少し興奮気味で帰り、家で話した。そして平塚さんに挨拶した。平塚らいてうなる人物の評判の高さに親爺はある晩、晩酌の折、何を思ったのか冗談的に私を「平塚らいてうの弟子にでもなるか」と言った。弟子とき聞いて<ママ>、らいてうさんは、てっきり男性だと思った。
 そして、らいてうのさん<ママ>は小説家なのか学者なのかと考えたりした。昭和17年の春5月頃だったろうか、私が母屋で留守番をしていると、和服姿の品のよい眼鏡をかけた初老のおばあさんが見えられて、私に「お父さんはおりますか」と尋ねられた。「今、畑に行った」と私は言った。それが平塚らいてうさんとの初対面であった。その日引越しの荷物が着いたことの挨拶であった。平塚らいてう家は主人の画家、奥村博史氏と、らいてうさん、それに菊美さんという23歳位の女中さんの3人であった。空き家は平屋と2階棟の2棟になっていて、連結していた。らいてう一家は初め平屋と2階棟の両方を借りて、のんびり暮らせた。風呂は200メートル離れた川口山の姉様の家へ行った。借家は平屋部分は水もトイレも完備していた。日常の必要食品類は当家で間に合った。そして生活上での諸々の相談事は責任者の当家へ何でも話し、私の父母も何事も円滑に対応した。家族的であった。少し落着いた頃私は、らいてう宅へ招待された。中学1年生であった。2階に案内された。2階からは、小貝川を正面に景観がすばらしかった。主人の奥村博史氏と初対面している横で、らいてうは私の顔をしげしげと看た。後でらいてうは人相見である事を知った。ここへ来てからの、らいてう一家の生活は小貝川の土手を歩いて川口山の姉様の家へ往復することと当家への出向であった。当家の母親は、らいてうの人物を尊重して温情的に何事も対応した。女同士の良き話し相手でもあった。間もなく画家奥村博史氏は絵を描きだした。らいてうの居宅の前の土手は、景観良く博史氏は土手の上にキャンバスを据え描いた。らいてうの方は言論統制時代だったので、らいてうの文筆活動の様子は知る由もなかった。

二 昭和十七年四月中旬の米空母機 日本本土奇襲攻撃以後の当地の模様

ハワイ開戦に始まり初戦で華々しい大勝利に酔いしれている日本に、昭和17年4月中旬頃、ショッキングな事件が起こった。4月中旬の頃の朝方、日本中に突然空襲警報が発せられた。演習ではなく本物であった。空襲警報は、朝8時頃発せられ、すぐ解除された。発令されたと時<ママ>は、そのずっと前に敵機は去っていた。事の次第はアメリカ空母より発進したノースアメリカB二十四、十数機による日本本土奇襲攻撃であった。米機は少数に分散して、日本の大都市を広範に空襲して去った。捨て身の片道爆撃であった。米機は大部分支那大陸に逃れた。損害は別として心理的効果は深刻であった。ただ呆然とする日本、そして深い屈辱感が残った。一方、米国民は「やったー、やったー」と喜んだ。しかしこれで日本人は空襲はあるものだと知らされた。
 太平洋戦争がまだ日本が勝ち戦の頃の昭和17年の夏頃だったろうか、戸田井の川口山別荘地の隣の坊主山に、高射砲陣地が作られることになった。坊主山は平塚家の川口山別荘から西に100メートルの隣にある当時は若松茂繁る標高<ママ>。小文間最高の見晴らし良い、主峰は円錐型の山だった。その頂上部を削り300坪ほどの平地を作り、照空燈陣地が造られた。高射砲と連動していた高射砲は<ママ>、対岸の千葉県側にあった。先の東京奇襲に刺激されてか、首都防空体制は意外に早かった。しかしそれは、敵機浸入<ママ>を東の鹿島灘より利根川を目標に入ると想定したらしかった。このあたりに軍施設等は何もなかった頃なので、これでもこの地方に有史以来初めて作られた軍施設であった。兵員は20人位、全国出身者だった。このような陣地が北相馬郡中部に数箇所作られた。当時は兵隊は時代の花形で、当時の小文間のこのあたりの人々は素朴だったので、兵隊を温かく接した。特に、当家は兵隊山の周りに田畑が多くて家も近かったので、余暇には皆んな遊びに来た。そして友情が生まれた。毎日夕暮れ時となると「東方の警戒」で演習が始まる。続いて「二〇三〇五〇.照射用意。照射」でパット闇夜に光りが走る。このような演習が2~3年続いた。このあたりの内地勤務の兵隊は、まだ平穏を楽しむ余裕もあったが、外では戦局は重々しく進展していた。

三 ミッドウエイ開戦と、ガダルカナル決戦

 翌、昭和18年の春頃だったろうか、日本海軍機動部隊は、ミッドウェイ海戦で大敗北し、全滅してしまった。先に日本を奇襲攻撃したアメリカ航空母艦隊の全滅を目的とした作戦だったようですが、情報が漏れる全滅した<ママ>のは日本空母艦隊であった。大本営発表は、米空母1隻撃沈。当方1隻沈没くらいだったが、私は、この真相を横須賀にいる兄から聞いた。私の兄は、横須賀で建具屋で成功した叔父さんの家で、建具屋の修行をしていた。その叔父の家で海軍兵士が何人も住みこんでいた。その兵士達が前線の生々しい真相を明かした。その話、空母「赤木<ママ>・加賀・蒼竜<ママ>・飛竜<ママ>」の主力4空母が一戦で全滅したと、私はその堂々たる世界一の航空母艦群を只一戦でなくしたことを悲しんだ。そして「アメリカ恐るべし」とも思った。日本はこの一戦で真珠湾の仇を取られたことになった。この後の日本海軍の攻撃力は、ぐんと落ちた。
 一方陸軍は、この頃本気で始まった米国の一斉反撃にソロモン群島のガダルカナルで苦戦していた。そして悪戦苦闘半年余、18年8月頃、ガダルカナル島からの犠牲を出して撤退した。それからの日本は、各所で「玉砕玉砕」の連続となった。玉砕は、北のアリューシャン列島のアッツ島に始まり南洋のマキン・タラワ・グアム、ペリリューそしてサイパンが落ちた。今や本土空襲は決定的なった<ママ>。

四 サイパン失陥頃からの世相

 強制疎開が始まった東京からの疎開者で、当地の家々にも田舎帰りの親戚の人々で大変となった。平塚らいてう家が住まう家も、大家の永田一家が戻ることになり、らいてう一家に立退きを要請した。他人どころではないという。らいてう家もこの時は困った。永田家との感情もあった。水はずうっと前から使えなくなっていた為、毎日当家まで汲みに来ていた。その時も水汲みに来た折に、当家の部屋の状況を診られた。最悪の場合入らせて貰えるかまで考えた様子だった。その頃の心情や経過をらいてうは、水汲みにくる際に当家の親爺に話した。結局、平屋の部分を永田家が使い、2階棟の方を平塚家が使用することで決着した。トイレは2階棟はないので、当家の下トイレ<ママ>を利用した。100メートル位のところを歩いてきて使われた。そこへ又らいてうの家の長男の奥様が疎開してこられ同居した。嫁さんはお若く、らいてうさんに変わって毎日水汲みに来られ洗濯もされた。大柄で綺麗なお方であった。あの頃26~7歳位に見た。当家では、何か行事の際には、若奥様を招待した。若奥様は、部落の人達と座敷で会食されたりした。兵役に出征していたらいてさんの長男の方も、休暇で帰宅の折には水汲みに見えられた。ご長男は陸軍の技術将校で体格のよい立派なお方であった。この若将校は、柏の陸軍の研究所に勤務と聞いた。近いので時折帰宅されていた。私の母親も、らいてうさんに「ずいぶん立派なせがれさんですね」とらいてうさんに褒めた。らいてうさんは自慢するようなお方ではなかった。
 そこへ又、らいてうさんの娘さん一家が疎開してきた。娘さん一家はご夫婦と女の子の3人でありました。この一家も毎日水汲み、洗濯に来られ、水汲み場は、いつも賑わいでありました。この娘さん一家は終戦後も暫く此所にいられました。一方川口山の娘さん宅へも身寄り者が入られて、賑やかになり、食糧確保のため堤防空地を開墾しての百姓生活でありました。全く当時は食料不足で生きる為に空地はところ構わず開墾してカボチャとサツマイモで助けられました。一億総百姓時代でありました。利根のかわらも青々とした畑でありました。

五 本土空襲時の追憶

 サイパンからの本土初空襲は、昭和19年11月中旬だった。B29 十数機が高々度で相模湾より侵入。東京湾を空襲して鹿島灘へぬけた。始めてみるB29。私共はそれを龍ヶ崎の軍需工場、羽田精機で見ていた。私共はその頃軍需工場、羽田で高射砲弾作りをしていた。
 翌昭和20年3月10日。東京は歴史的本格夜間大空襲を受けた。B29大編隊による超低空夜間焼夷弾攻撃で、防空施設は役立たず、下町中心に東京の3分の1が灰座に帰した。取手辺りはB29の帰り道であった。私は寒気に震えながら真っ赤な東京と電灯をつけて、超低空で退去するB29が全部過ぎ去るまで1時間以上要した。B29はほとんど無傷で帰った。この空襲で10万の死者といわれた関東大震災の再現であった。それから2ヶ月経って5月中旬の東京夜間大空襲は劇的であった。日本側の必死の抵抗に遭った。この時ばかりは戸田井の兵隊山の照空部隊も初実戦した。幾條もの光がB29を十文字に捉えた。それを日本の戦闘機が射った。千葉県側の高射砲部隊の発射砲弾の弾光が幾條も上にあがり、仕掛花火のショーの様だ。そこへ、1個また1個と東京方面より火の球がこちらへ流れて来る。その火の球は被弾して燃えて逃げる米機だった。らいてう一家も大家の永田さんの主人も双眼鏡を持って土手で見ていた。戸田井の探照灯に捉えられた1機が陣地の真上で突然パーッと火を噴いた。それを見ていた兵隊達がワーッと歓声を挙げた。彼らも3年も待っていた初実戦であった。しかしその1機は間もなく火が消えて真南に変針し、千葉方面に消えた。恐らく帰還できなかったと思う。
 この夜B29 1機が戸田井の真東の7キロ先の龍ヶ崎の佐沼部落に落ちた翌翌日、私は勤務先から帰途。墜落現場へ行った。B29は農家を直撃し、住人の何人かが犠牲になった。花束が供えてあった。奥様は外出されていて難を免れた。この事件は、今次大戦で龍ヶ崎の歴史に残る事件だったと思う。その他龍ヶ崎市では、合併前の女化地区に昭和19年夏頃から戦闘機基地が突貫工事で作られ、私共は学校と村の賦役で何日も勤労奉仕した。この飛行場は出来あがったが余り活用されず終戦となり今は跡片もない。

六 本土決戦態勢の頃

 当地の兵隊山(坊主山)の防空部隊は、昭和20年5月中旬の実戦を最後として、20年6月東京の立川へ急搬転進した。本土決戦の準備が始まった。戸田井へは20年5月頃、船舶部隊が進駐してきた。暁部隊と言った。物資人員の運搬目的らしかった。戸田井の昔からの舟着場を利用して、らいてうさんの前の土手下の川に10数隻の鉄舟艇が集結した。武器は鉄船の外は、シャベルが主体であった。兵隊は土地の民家の空いている所をどこでも住み込んで宿所とした。毎日男達が合流点の河川敷に舟を隠す入り江を何ヶ所も作った。又、芸大山の南面には、物資貯蔵用横穴が何ヶ所も掘られた。又、20年夏頃からは、取手吉田地区の利根河川敷は利根川を渡る戦車用道路造成のため、住民が繰り出され、戸田井の別荘族の女衆もシャベルを持った。隣の伊勢屋の親爺氏(故永田源助氏)が3時の一服の時「こういう人達まで出るようになってしまったんだからなー」とつぶやいた。平塚らいてうさんも頭巾をかぶってシャベルを持った。今や日本は、空襲で主要都市は全滅し、食料物資は欠乏し国民は最低であった。さすがの平塚らいてうさんもある朝水汲みに来られた際、やや疲れた声で容易でない現在の時局を当家の親爺に口にし、こうなっては私共が一番困ってしまうと漏らした。私はそれを聞いていた。それから暫くして、私はらいてうさんは疲れきっている農家の奥様達に指圧してやって皆さん楽になって喜んでいる話しや、農家で残り分の野菜を貰ったお礼にと博史画伯の絵を謝意として喜ばれているなどの話しも聞いた。
 昭和20年8月6日、広島に原爆が投下され、続いて長崎と2発の原爆で日本は8月15日無条件降伏した。

七 新しい時代の夜明け

 とにかく、新しい時代がやってきた。日本人の苦難と不安は相変わらずだったが、空襲はなくなり夜も電灯がついた。マッカーサーが進駐してきてまず初めてやった事は、婦人解放と農地改革であった。ある朝ラジオは報じた。「日本婦人に参政権を、その先覚者は平塚らいてう女史である」と。それからは平塚らいてうの名は日増しに高くなっていった。太古神話にある太陽が、岩戸に隠れていた暗黒から、岩戸が開けられて一瞬の輝きを取り戻した話しではないが、まさにそんな様な雰囲気であった。破滅の暗から希望の明へ時代は大きく動いていた。
 当のらいてうさんは、毎日今まで通り、慎ましく生活用の水汲みに来て、同じような生活であった。毎日平塚らいてうの名の多さに、当人と一番関係が深かった私の女親が「毎日平塚らいてう、平塚らいてうって、まー何の話かいなー」と言った。かつて一時期、取手の東の端の雑草の下に隠されていたこの国の宝は、雑草が払いのけられて、元来の黄金の耀きを取戻したような雰囲気であった。
 とにかく終戦は、平塚らいてうの運命を変えた。日本が、そして世界が新時代の歴史の幕開けとともに蘇った。取手の丘で・・・。

八 平塚らいてう一家東京に戻る

 栄養失調か、異状に顔の膨れた復員兵士が帰ってくる。当家でもフィリッピンへ出征した兄の消息が気になった。戦死であった。葬儀は、奥村画伯に名刺版を拡大。描いてもらって肖像画で葬儀を終した。平塚らいてうの名声は、日毎に高まり、世の中も幾分落ち着きだした。
 昭和22年春、らいてうさん一家は東京へ引き揚げた。そして部屋の跡かたずけ掃除の際の余りものを「こんなものでもお役に立てば」と大量の図書類をどさっと置いた。私は、それをらいてう一家の片身として大事に保存した。そして余暇に少しづつ見た。その残し物の中に全国各地の絵葉書書類も混じっていた。
 らいてう一家が戸田井を去った後、3回位はご夫婦で川口山の平塚家へ訪問される姿を私は見た。3回目には、画家奥村博史氏の足が相当に弱っていて、ステッキを使って、やっと来た様子だった。それから程なく、奥村博史画伯が亡くなられたことを私は新聞で知った。「らいてうの夫」と書いてあった。博史氏亡き後、らいてうさん御自身は、もう一度戸田井へ見えられた。その時は、付き添いの女性と2人であった。その時は、小貝川の堤防上段をゆっくりと川口山の方へ散歩されて、川口山の平塚家へは寄らずに小段へ下りてゆっくりと昔の居宅の前を通り帰られた。万感の思いを抱いてのお姿にみえた。
 平塚らいてうには、戸田井の地は忘れ得ぬゆかりの地であった。らいての<ママ>お母様は90歳以上の長命で、戦争中、ここで永眠され、姉様は、終戦直後この地で亡くなっていた。この後らいてうは、戸田井へ見えることはなかった。
 川口山の別荘に残った平塚家の一族は、その後10年位残って暮らされたが、約20年位前、全部撤去された。最後の夜、私は、長年の好からお別れに参上した。らいてうさんの姉様は既になく、夫の平塚米次郎氏は元気であった。米次郎さんは、私に「私共は早くからここに疎開してきたので今まで生き長らえたのだから…」と言った。あの頃は柏へ引っ越されるとの話しであった。住居跡も今はない。

九 平塚らいてうさんへの思い出

 平塚らいてう家は、昭和22年戸田井を離れ、川口山の平塚一族も去り、平塚らいてう関係も忘れかけてきていた昭和30年代、日本は戦後の復興から躍進への時代であった。小文間小学校のPTAは、餐場芳隆先生<ママ>が会長を長くやっていただき、機関誌「おもんま」が発刊された。主筆は餐場先生<ママ>だったが、昭和45年頃、私も投稿を依頼され、一筆書いた。題して「平塚らいてうさん御一家の思い出」であった。学校誌の粗文ながら第1面に掲載された。しかし、程なく地方小新聞に平塚らいてうの紹介記事が掲載されるようになった。その後、新聞テレビにらいてう関係がちらほら目につくようになった。その原因について、私は日本人の生活が安定してきて、真実を見直す余裕が出てきたこともあろうと分析した。それからは涼原の火が燃え盛るように盛り上がっていった。
 さて、平塚一家去りて50年余り、私も70才の古希を迎えた。しかしらいてう一家の事は美しく脳裏に残って離れない。しかしそれはあの大戦乱をぬきにしては語れない。戦乱で当地に疎開してきて関係が生まれた事実です。昭和4年に生まれ、昭和20年までの青少年時代、戦争づくめだった私達の世代は、ずいぶんいろいろな事を見、体験してきました。地軸を揺るがす様なあの大戦争も起こるべくして起こったのであろうか。そして700年前元冠も撃退した無敗の国の敗北も、そのように出来ていたのであろうか。平塚らいてうとの出会いも偶然ではないように思える。らいてうもその一族も取手に縁があった事と思う。そしてらいてう自身ここで劇的な体験をし、劇的な人生の飛躍台となった。平塚らいてうは17年春に戸田井に来られ、22年までの6年間、この地に住まわれた。当家の接触の主役は父母であったが、私は青少年時代で粹な角度から全てを観ていた。そして可愛がられた。らいてう一家が美しく思いだされるにはやはり御夫婦の薫陶であろう。らいてうさんはいつも気品を湛えていた。そして強い意志の持ち主であった。人間にすきがなかった。どんな困難にも冷静に対処した。明治の女性の風格があった。らいてうさんの人気の秘密はこの人間にもある様にも思う。当家でも外へ出た姉様達里帰りして話しの終わりは、らいてうさんの話しで落ち着く。姉達はらいてうさんがと戸田井での生活の最中に嫁いで行った。いろいろ思い出話しがある。
 らいてうさんは風流の人でもあった。夜も水汲みのバケツの音がするとらいてうさんで、秋の満月の夜など夜を見上げ「今夜のような晩、本当は船を出すといいのですがねー」と月光の夜空を惜しむような場面を何回もあった。その月光に映えて眼鏡をかけた美しい和服姿の女性美が私は忘れない。きっと以前その様な人生体験もあった事なのでしょう。
 らいてうさんについて私は、今でも心残りある事がある。それは戦後全国的に有名になっても、らいてうは平然と慎ましく毎日水汲みに来て、変わるところはなかった。そして必ず立ち話の井戸端話しをした。私は、このなんでもないようなおばさんが将来、日本的に尊重されるようになろう。今、戸田井での平然たる姿を1枚でも写真に撮り置きたいと思った。しかしその頃は写真機ある訳もなし、口惜しさ今も残る。その変わり平塚らいてう一家が戸田井を去る時おいていった余りものの図書類をせめて遺物として保存した。
 平塚らいてうの人気は、一過性のものではがないと思う。これからも永久に燃え盛ることだろう。それは、「真実」の一語に尽きるように思う。世の中の半分は女である。その半分の女性の地位はどうであったろうか。男は太陽、女は月であった。それでいて世の中は女でなくてはならない「人の身代はかかあで持つ」ではないが、一番大事な女の地位をこのままで良いのだろうかと立ち上がる。女性がいても良いはずである。しかし、それは、よほどの才知と強固な精神力を持った信念の人達でありましょう。不思議な縁で平塚らいてうさんと数年間暮らした私達は、やはりただならぬ女性であった事を回顧する。
 そして今、利根の流れも小貝の流れも変わらねど、らいてう一家が朝な夕な行き来した川口山への合流点の風情は変わった。若人の園となった。そこに若い新しい創造の息吹がある。
 平塚らいてうは情熱の女性であった。取手の街夕日<ママ>は殊のほか美しい。情熱的だ。取手の街を、そして大利根を黄金色に輝かせて真っ赤な夕日が今日も西に沈む。
 人々の心に明日への果てしない希望と我らがふるさと。取手の永遠の発展を約束して。
 完
(写真:小文間を訪れたときの平塚らいてう)

プログラム

会長あいさつ
来賓あいさつ
フルート演奏
ブランデンブルク協奏曲第5番より2・3楽章 J・S・バッハ
シリンクス C・ドビュッシー
冥 福島和夫
「平塚らいてうを想う」 中村三佐男
フルート演奏
竹田の子守歌 日本民謡
宵待草 多忠亮
さくらさくら 日本古謡
赤とんぼ 山田耕筰
閉会のことば

Bibliography

The Project