らいてうさんのいた頃

2003年 1月1日 第1版 第1刷発行
著者 永田幸夫
企画 協力関科学技術振興記念財団

 今から60年近く前になります。私の父が郷里の茨城県北相馬郡小文間村(現、取手市大字小文間)に建てた別荘に、平塚らいてうさんと夫の奥村博史氏が、滞在したことがありました。昭和18(1943)年の秋から22(1947)年の春までの、戦中戦後の一時期です。
 そのような縁もあり、記録映画『平塚らいてうの生涯』の上映を知ると、公開されて間もない3月の末、神保町の岩波ホールでの鑑賞を思い立ちました。平塚らいてうが動いているフィルムが14秒しかないという点にも、興味を覚えました。
 1時間半ほど経過した頃、私が見慣れた小貝川の堤の景色が眼前にひろがり、「あっ」と思った途端、場面が変わりました。「ここからが、らいてうたちの住んだところ」というナレーションに続き、父が昭和42年頃に建てた平屋の建物が現れたのです。アングルは何度か変わりましたが、その建物はずいぶん長くスクリーン上にありました。5分近かった気がします。
 驚きました。あろうことか、父の老いらくの夢の残骸が、平塚らいてうの記録映画に登場していたのですから。父は、80歳近くになって突如、屋敷跡地の池(水源が涸れて今はありません)でアメリカナマズの養殖事業を始めました。「らいてう一家が住んでいた壊れた小屋」とシナリオで紹介されたその建物は、実は老朽した別荘の撤去後に建てた、養殖管理者用の宿舎でした。別荘そのものは、コンクリートのタタキだけが、撮影された建物のすぐ傍に残っていたのですが、画面には現れませんでした。
 この建物には夫妻は住んでいません。しかし、映像の中の廃屋は、不思議な力を放っていました。軒の波板を突き破って真っ直ぐに伸びる竹、その清々しさに、思わず目を瞠りました。緊張感を孕んだ音律のバックミュージックが、何を表現しているのかはわかりませんが、朽ちかけた建物と植物の生命力の映像的対比には、絶妙のバランスがありました。
 場面は移り、「らいてうたちの世話をした土地の人、中村家の三佐男さん」が登場しました。疎開した頃、私は毎日のように、中村兄弟と霞網で鳥を捕ったものでした。彼は年を経て、すっかり変わっていました。もちろん、私も老人になりました。画面の中の彼は、客席にいる私に語りかけます。
 「らいてうさん、常に上品だったですね。それから何となく、らいてうさんも博史氏もやっぱりいい香りがしましたよ。香りって言ったって、匂いじゃなくて、人間的ないい香り感じました。何となくいやらしい感じしない」
 その香りがどんなだったか、私の記憶にはありません。周囲を窺うと、観客は皆、真剣に見入っています。
 スクリーンに視線を戻すと、小貝川の夕景がありました。実に美しい夕日です。対岸から遠景で捉えられた取手松陽高校の校舎が、砂漠の蜃気楼のような情緒を漂わせ、オレンジ色の残照の中に浮かび上がっています。
 羽田監督の映像は素晴らしいものでした。おかげで、故郷の美を再発見することができたようです。
 そして小貝川は、滔々と、利根川に流れ込んでいきました。あの頃と同じように......。
 「幸夫さん、これ読んでごらん。僕が書いたのだよ」出会ってからまだ一、二度しか顔を合わせていない頃でしたが、彼はいそいそと一階の倉庫の扉を開け、うず高く積み上げられた本の山から1冊の雑誌を手にとると、頁を繰って私に読ませました。たしか婦人公論だったと思います。
 題は「僕の家は金魚鉢』、四方ガラス窓の2階の部屋を金魚鉢に、自分をその空間を浮遊する金魚に見立て、家の周囲の素晴らしい眺望を満喫して暮らす心境が、見開き2頁ぐらいの長さの文章に綴られていました。  戦争とは無縁の呑気なことばかり書いて、このおじさんは、何だろう。それに僕の家だなんて失敬な......。少年のように自慢する彼の顔を、少年の私はまじまじと見てしまいました。
 彼の名は奥村博史。「若きつばめ」の語源となった人物で、新しい女、平塚らいてうの年下の夫、私たちの疎開中の同居人です。

 昭和19(1944)年12月下旬、私は開成中学の1年を休学し、千葉県松戸から父の郷里の茨城県北相馬郡小文間村の戸田井に、両親とともに疎開しました。私は男ばかり5人兄弟、上から秀男、英二、昌雄、龍雄、幸夫の末っ子でした。当時は、私と龍雄が父のもとにおりました。
 11月1日、東京上空にB29が偵察に飛来し、市街地への本格的空襲が23日にありました。既に1月、小国民への疎開命令は出ていましたが、この時初めて、父は疎開を真剣に考えました。12月に入ると松戸の隣、市川の国府台にある野戦重砲連隊に毎晩のように焼夷弾が落とされ、松戸の陸軍工兵学校からは高射砲を撃ち、空中で破裂した弾の破片が家にも落ちてくるようになったので、大急ぎで疎開したのです。
 私は肺門リンパ腺に疾患があったため、医者の伯父に勧められ休学手続きをとりましたが、少し後ろめたい気持ちがして、学校の友人には何も言わずに疎開しました。父の母校、本郷の京華中学に通っていた四歳上の兄、龍雄は、私たちと一緒に来てはみたものの、すぐに帰ってしまいました。勤労動員で東京に残っている級友を、裏切るような気がしたそうです。

 博史さんの『僕の家』は、私の父、泰助が代々の屋敷跡地に建てた別荘のことでした。
 永田源一郎家は、医者と神主を務めてきた家で、当主である父の長兄、源一郎も医者でした。しかし大正初め、源一郎の次弟、忠助が支店長を務めていた取手の興国銀行が、取引銀行の取付けの余波を受け、預金者への弁済のため、一家の資産のほとんどを処分することになりました。そのため、永田家の家業である医院自体も、戸田井で続けることが困難になってしまいました。
 その後、源一郎は開通間もない小田原鉄道(現、小田急電鉄)に招聘され、世田谷中原(現、世田谷代田)駅前で開業し、ご近所にお住まいの声楽家の長門美保さんや、映画女優、久我美子さんの実家の久我侯爵家の主治医、世田谷区立代沢小学校の校医を務めることとなりました。
 昭和14(1939)年頃、屋敷と医院の建物を解体した屋敷跡地が草茫々になっているのを、末息子であった父、泰助は先祖に申し訳なく思い、小さな別荘を建てました。この別荘は17(1942)年まで、息子たちの川遊び用の家としてだけでなく、父の会社の保養所としても利用されていました。
 総面積約27坪の瓦葺き木造2階建て。1階は、6畳の台所、6畳と3畳の和室に押入、コンクリートを打った約15畳のタタキと7畳半の倉庫、タタキの上は吹抜けです。厠は座敷の奥、裏の小屋に五右衛門風呂がありました。ロフト風の2階は、6畳の和室と押入、籐椅子2脚と卓を備えた3畳の板の間。『金魚鉢』と喩えられたモダンなこの家を建てた村の棟梁は、戦後の銀幕を飾った女優、折原啓子さんの父上でした。

 戸田井河岸は、江戸と銚子を結ぶ水運で栄えた港町で、1キロほど先の小貝川と利根川の合流点を望む往時の屋敷には、江戸時代から多くの文人墨客が、旅の途中に立ち寄り逗留したものでした。将棋の関根金次郎名人もその1人で、祖父の代のことですが、屋形船を五艘繋げて大利根に浮かべ、近在の名士を集めて将棋の指南をしたそうです。
 昭和18(1943)年の夏が終わった頃、戸田井のそばの川口山に住んでいたらいてうさんの姉上が、松戸の家に来訪しました。我が家の別荘を「アトリエとして貸して欲しい」と請われた父は、青笹運動の理解者でしたから、「平塚らいてうさんになら喜んで」と、父祖同様、文化人をもてなす気持ちで、無料での使用を快諾したのでした。ただし、私たちがそこに疎開する時までのはずだったのですが......。

 私たち一家が疎開して来たのに、博史さんは姉上の家には戻りませんでした。らいてう夫妻には一男一女があり、初産を迎えた娘さんがこの頃、川口山の家に滞在していたからだそうです。そのため、2階の9畳の空間には博史さんが一人、同じ広さの1階座敷には親子3人という、上下2階の住み分け生活が始まりました。
 この生活は、翌年の昭和20(1945)年5月25日、龍雄兄と共に私たち家族が信州に再疎開するまで、5ヶ月間続きました。彼が籠る2階の部屋は、いつもひっそりしていました。彼が使っている間は、私は2階に上がらなかったので、何をしていたか知る由もありませんでした。
 2階の下にある倉庫には、らいてう夫妻の蔵書が積み上げられていました。暇で暇でしようがなかった私は、時々、その中から面白そうな本を探して読んでいました。
 興味が湧いたのは、ベルリン・オリンピックを特集したハードカバーの写真集です。我が家にはなかった本でした。『民族の祭典と美の祭典』と題されていたでしょうか。昭和15(1940)年の出版の本でした。
 レニ・リーフェンシュタールの映画が、昭和3年に日比谷映画で公開されてヒットしたのは、兄たちが見に行ったので知っていました。「素晴らしいぞ」と聞かされましたが、私はまだ小学校の低学年でしたし、母がスポーツには関心がないので、見せてもらえませんでした。
 父は、昭和15(1940)年に開催予定だった、東京オリンピックの通し切符の予約券を持っていましたが、戦争のため、ただの紙切れになってしまいました。
 所用で両親が松戸の家に泊まった夜、私は座敷に1人で眠りました。
 「幸夫さん、偉いんだね」と、翌朝、階下に降りてきた博史さんに感心されましたが、何が偉いのか、わかりません。
 「よく一人で寝られるね。僕は、ここで1人で寝るのは本当に怖いんだよ」と、言うのです。
 深閑とした夜中、確かにビシーッという大きな音が何度か聞こえました。冬だから柱の木が乾燥して鳴った音なのでしょう。この当時、博史さんは、私の父と同年輩の50代中頃でした。
 そんな彼の日課は、三度の食事をしに姉上の家に通うことです。
 姉上の家は戸田井にはなく、我家から小貝川の堤をちょっと行った川口山にあります。田舎の広めの屋敷内なら、離れから母屋に行くような距離でしょう。もっと昔は丘だったので川口山と呼びますが、この時代は今と同様、堤の上の竹藪に囲まれた一郭でした。そこに建つ3戸の東京風住宅の中の1軒が、らいてうさんの姉上の家です。我家の庭に畑はなかったのですが、こちらの家の庭には家庭菜園ほどの畑を見かけました。
 昼時、食事に出かける博史さんは、トントントンと堤を斜めに駆け上り、川口山に向かって早足で歩いて行きます。私は、その様子を、よっぽどお腹が空いているのだろうと思って眺めていました。背丈のある彼が、ベレー帽にマドロスパイプ、インバネスの裾をひらひらと風にひるがえして歩く姿は、元気そのものでした。
 川口山には、庵に住む風流人という感じの漁師の小父さんがいました。この人の本宅はすぐ近くにありましたが、川の近くの方が漁には便利だったのでしょう。川に浮かべた船の上で、七輪で釣った魚を焼いているのを見かけた昌雄兄が、「小父さん、いいなあ」と声をかけたら、「君も漁師になるかい」と言われたことがあるそうです。戦争前は、季節になると松戸の父のもとに、私たちがモクゾウガニと呼ぶ、なかなか美味の藻屑蟹を持ってきてくれました。

 私の日課は、水汲みと動物性蛋白質食糧の調達です。
 井戸は家の南側にありました。母は洗濯には使っていましたが、水質が悪くなったため飲用には適さなかったので、家の裏手、池に沿った小道に続く中村常太郎さんの井戸から、天秤棒で飲水を運ぶのが、朝一番の私の仕事でした。
 父は、建物や庭、養魚池、林の管理などを常太郎さんに任せていました。
 天秤棒を担ぐのは初めてなので、家の井戸端で練習を積みました。担ぐにはコツが要ります。力ではなく、腰を入れ調子をとって担ぎます。
 親子3人の1日に必要な水の量は、2往復分のバケツ4杯でした。汲んだ水は台所の大きな瓶に入れておきます。この年の冬は雪が多く、雪の中を運ぶのはつらかったです。
 常太郎さんが野菜や餅などを届けてくれるので助かりましたが、動物性蛋白質食品の配給は皆無と言える社会状況でした。それを救ってくれたのが、兄、昌雄の新品の霞網でした。霞網は絹糸ですから高価で、兄は何年もお年玉や小遣いを貯め、少年倶楽部の通信販売で買いましたが、一度も使うことなく、昭和18(1943)年12月1日、学徒出陣したのでした。

 父はリベラリストなので、息子たちに軍国主義教育をしていませんでした。ですから、昌雄兄は戦争には行きたくなく、山にでも逃げようかと思ったこともあったそうですが、逃亡などしたら、家族に累が及ぶので、それは断念しました。しかし、どうしたら生きて帰れるか、悩みました。
 兄は当時、世田谷中原で開業していた父の長兄、源一郎の養嗣子になっていました。つまり本家の跡取りなのです。
 養父、源一郎は、近所に住む小笠原長生海軍中将(東郷元帥の参謀)の主治医なので、「中将に相談せよ」と言ったそうです。
 ところが、医院のすぐ近所には、陸軍少将も住んでいました。その子息は、水産学校出身の海軍大尉で、当時、駆逐艦の乗組員として、ガダルカナルで輸送にあたっていましたので、「海軍は怖いよ」という話を昌雄に聞かせました。
 魚雷を持った雷撃機の攻撃や、艦上爆撃機の機銃掃射で撃たれたり、至近弾による爆風を浴びて兵隊が海に落ちると、そこにはフカが待ちかまえているので、一溜まりもありません。
 海軍は志願制なので、特に申し出なければ陸軍配属となりました。昌雄は、船に乗らないですむのだから、陸軍で良いと決心しました。
 結果としては、兄は黄疸になり、部隊がインパールに移動した時、一緒に移動できなかったが故に命拾いしましたが、小笠原中将に頼んでいれば、海軍省勤務になって安全だっただろうと、後になって気づいたそうです。
 上の二人の兄たちは、昌雄兄よりも早く、昭和17(1942)年に出征していました。この兄たちも、戦争から早く帰りたい一心で、大学卒であるにも関わらず、敢えて幹部候補生の試験を受けませんでした。戦争が始まった頃は、一兵卒は2年くらいで帰れましたが、将校になると、そうはいかなかったからです。
 しかし、「大学出なのに、なぜ幹部候補生にならないのか。御国に御奉公する気はないのか」と、上官に相当に殴られるはめとなったそうです。その挙げ句、戦争激化に伴い、2年で帰ることは不可能になってしまいました。それどころか長兄の秀男はシベリアに抑留され、復員できたのは終戦から3年以上も経った、昭和23(1948)年11月でした。
 疎開して間もなく、常太郎さんの息子で3歳上の三佐男さんが、「幸夫さん、霞網持ってますか」と聞くので、「持ってるよ」と答えると、彼の目が輝きました。彼と、私と同い年の弟の昭七君との霞猟は、春に渡り鳥が去っていくまで、毎夕のように続きました(今は霞猟は禁止されています)。
 夕方4時頃から小貝川の河原にでかけます。薄暮の中、西に富士山がくっきり見える方に、まず網を張ります。丈は約3メートル、14メートル幅1枚、6メートル幅2枚、両端を竹竿に結びつけた3枚の網を張って待機します。河原のねぐらで鳥が寝入った頃を見計らい、東からじわじわと寄っていき、網から10メートルぐらいのところで、「突っ込めー」と喊声をあげて追い込みます。鳥は夕日で明るい西、網の方に逃げるので一網打尽です。と言っても3枚の網で捕れるのはツグミが5羽ぐらいで、網元として私が3羽、中村兄弟が1羽づつ、と分配するのが通例でした。これが貴重な蛋白源になりました。
 そんなある日、河原で待機していた三佐男さんが、突然「伏せ!」と緊迫した声を発しました。恐る恐る視線を上げると、夕闇の中、川口山の堤の下を着流しの男性が散歩する姿がありました。「あれ、おおもと。危険だ」
 三佐男さんは、男性の方を顎で指しながら、小声で言いました。警戒するような態度でしたが、その時の私は「おおもと」が何なのか、知りませんでした。

「おおもと」とは大本教のことで、戦時体制の国家が抹殺指令を出し、大弾圧を加えていた宗教団体であったことは、後年知りました。
 明治25年、京都の綾部に住む一女性、出口なお(開祖)が、天のお告げを受けたそうです。自動書記状態で、大量の和紙にひらがなで著した「筆先」を教義としましたが、そこには社会への批判や、人類の将来への予言、警告なども含まれていて、東京が火の海になるという、いわば、日本の敗戦を予言するような内容もありました。また、世界平和を祈り、世界共通語としてのエスペラント語の研究を推進したり、世界宗教の統一を呼びかけていたので、当時の軍国主義国家にとって、大本教は邪魔な存在であったわけです。戦争中は、隠れキリシタンのように暮らしていた信者もいたそうです。
 らいてうさんの姉上、孝が、戦争前から大本教の信者で、「東京が火の海になる」と信じて、親しい信者たち数家族と共に、我が家の近所の川口山に移り住んだということは、今から数年前、らいてう自伝を読んで初めて私は知りました。小文間村への彼らの集団転居は、弾圧から逃れる目的もあったのかもしれません。今にして思えば、川口山は、まさに隠れ里という趣でした。
 黄昏時、人目を忍んで散歩をしていた男性は、信者の一人だったのでしょう。しかし、「あの人は誰?おおもとって何?」と父に尋ねるのが憚られる雰囲気がありました。私の知る限りでは、川口山の人たちが村民と交流している様子はなく、何人が暮らしているのかもわからず、また、私が姉上に紹介されることもありませんでした。
 昭和15(1940)年頃に、川口山に3軒の平屋が建ったと記憶しています。それまでは、漁師の小父さんの庵のような家があっただけでした。私は疎開中に一度だけ、空気銃で鳥を撃ちに行く時、林の入口からのぞいて見たことがあります。松などの木々の間から小貝川が眺められる場所で、「うちも、ここに建てればよかったのに」とも思いました。
 昭和17(1942)年春、東京にいては危険だからと、姉上は、らいてう夫妻をを<ママ>川口山の家に呼び寄せ、1年半ほど経った18年秋頃に、我が家の戸田井の別荘を貸してほしいと、姉上が松戸の家を訪ねてきたのです。眺めの良い所に建っているので、博史さんが気に入り、アトリエに使いたいから、という依頼があったと父から聞きました。
 当時の社会状況を鑑みれば、恐らく地元の警察から、当局が危険視している団体として、彼ら大本教信者についての情報が村に届いていたと思われます。三佐男さんだけでなく、大人は皆、知っていたはずです。しかし、村の人たちが常識的な態度で川口山の新住民に接していたのは、彼らが、小文間村の旧家、医者の家の永田家のお客さん(らいてう)の姉上や友人である、ということが影響していたでしょう。
 当時の私は知らなかったことですが、近所の子供たちは、空缶を貰いに川口山に行ったそうです。姉上の家の裏にゴロゴロ捨ててある鮭やパイナップルの大きな空缶は、子供たちがパッカンと呼ぶ、缶に穴を開けて通した紐を手に持って、缶の上に足をのせて歩く遊具を作るのに重宝したようです。
 これらの缶詰類は、軍部にはあるが、特攻隊の最後の晩餐用なのだと、話に聞いていましたが、らいてうさんの姉上の家にあったわけです。
 獲物に恵まれた日、口笛を吹きながら家の中に入ったら、博史さんがダダダダッと階段を駆け下りてくると、驚天動地の体で周囲を見回しています。しかし、そこには私しかいません。
 「今の口笛、幸夫さん、あなたなの?」と、彼は訝しげに聞くのでした。
 「そうですよ」と答えると、今度は階段を駆け上り何かを手にして戻ってきました。
 彼は、外国の小さな銀貨3枚と「これは僕が丸善に試作させたものだよ」と言って、ブロンズ色のノック式のペンをくれました。初めて目にするものなので驚きました。今のと同じ構造のシャープペンシルだったのです。
 このペンは、しばらく愛用しましたが、重かったこともあり、いつの間にか、どこかにいってしまいました。コインは、永田氏の氏神を祀ってある、庭の天神山の椎の木のうろの中に隠しました。宝物のつもりだったのです。何年かして探してみたのですが、見つかりませんでした。たぶん、腐食してしまったのでしょう。
 口笛を吹いて物を貰ったのは、後にも先にもこの1回きりです。ヨハン・シュトラウスの『蝙蝠』でしたが、博史さんのあの驚きようは不思議でした。田舎の子が吹くはずがないと思ったのでしょうか。それとも、よほど音楽に飢えていたのでしょうか。私にしてみれば、本当はジャズが吹きたかったのですが、当時は敵性音楽なので、用心して友邦ドイツのウィンナワルツを選んだだけでした。

 母の末弟は『たきび』の歌を作曲した渡辺茂です。平成14年夏、訃報に接しましたが、この叔父の影響で、兄たちが洋楽レコードをたくさん集めていたので、私も自然に聞き覚えていました。茂叔父と上の兄たちは年齢が近く、兄弟のような関係でした。別荘が建った頃の太平洋戦前の夏、彼らは小貝川の少し上流の堰のあたりで、船遊びや釣りに興じました。叔父にとって戸田井はお気に入りの場所でした。『たきび』は、茂叔父の応募曲が巽聖歌の詩の作曲コンクールに当選し、NHKラジオで、昭和16(1941)年12月9日に放送されて世に出ました。ところが、たきびは攻撃目標になるという、軍部の灯火管制上の理由により、戦争中は日の目を見ない歌になってしまったのです。
 その前年の昭和15年、叔父は奉祝国民歌『紀元二千六百年』の公募にも応募していました。
 記念行事で国中が沸いていても、父は醒めていました。銀座で花電車や電飾の車がパレードをした国民的行事があっても、取えて、いつも出かけている銀座には行きませんでした。家のある松戸では行事は何もなく、華やかなものを見る機会がなかったので、小学3年生だった私としては、何となくつまらない気もしました。
 その一方で叔父は、応募作品が次席に選ばれたので、バンドを乗せた花電車の先頭で、クラリネットを吹いていました。詞曲とも公募で、1万8000以上の応募があったそうです。叔父は、嬉しそうに「これ、俺だよ」と、自分が写っている絵葉書を私に見せてくれましたが、戦後は、「一等にならなくて良かった」と言っていました。
 この紀元二千六百年の歌には、すぐに替え歌が作られました。
 「金鵄上がって十五銭、栄えある光三十銭、今こそ来るこの値上げ紀元は二千六百年ああ一億の金は減る」という、煙草の値上げを皮肉った歌詞ですが、小学生でも、男の子も女の子も歌っていました。まだこの頃は、それが許された時代でした。

 小貝川や利根川は、昔から現在の場所を流れていたのではありません。江戸時代の河川大改修工事と先人の川を守る努力により、現在の景観ができあがりました。
 天然の美と思いきや、実は人工の美なのです。
 この風光からインスピレーションを受けた芸術家は、茂叔父だけではありません。
 彫刻家、詩人である高村光太郎氏は、「利根川の美しさは空間の美である」という名言を残しています。
 結婚前の智恵子夫人の作品は、青笹の創刊号表紙を飾りました。智恵子さんの姪が取手の宮崎家に嫁いだ縁もあり、取手の長禅寺の大利根を望観する境内に建つ、画家、小川芋銭を偲ぶ『芋銭先生景慕之碑』の文字は、光太郎の揮毫によるものです。

 奥村博史さんも、川の景色が気に入っていたようです。天気の良い日、彼が堤の上で絵を描いているのを、何度か見かけたことがありました。そういう時は、傍らに長い紐に山羊をつないで、草を食べさせているのです。
 ある時私は、小石を1つぶつけてみました。山羊が「たすけてー、たすけてー」という風に鳴くので、面白くなってまた石を投げました。「幸夫さん、それ困るんだけど」と、博史さんが怒ります。もちろん、すぐに止めて謝りました。
 彼は山羊をペットのように可愛がっていました。山羊小屋に使っていた物置の裏手にビワの木があったのですが、冬枯れしたビワの葉を、博史さんは「おせんべい」と呼んで、「これ、好物なんですよ」と、嬉しそうに、山羊にパリパリと食べさせていました。
 絵を描くことと、山羊に何かを食べさせていることぐらいしか、博史さんが外で何かをしているのを見たことはありません。
 戦時下でも、父は仕事に通っていましたから、私は「この人は、仕事もしないで......」という目で見ていました。

 父は、次兄、忠助の親友、後に中央大学商学部部長になられた三浦義道博士との御縁と御指導により、長らく生命保険の仕事に携わり、第一生命に勤めていたこともあります。しかし戦時中は、友人の博士が所有する特許を利用した代用食や防毒用活性炭、洗浄剤などを開発製造する会社を経営していました。
 空襲で操業も困難になっていましたが、疎開しても、週に2日ほど赤羽の工場と板橋の研究所へ、布佐駅から成田線を利用して通っていました。
 布佐駅は家から5キロ少々の距離です。戸田井橋を渡り、対岸の堤の道を南下して行くと、布川から栄橋を渡って1キロぐらいに駅があります。父は戦闘帽をかぶり、足にゲートルを巻いて通いました。この時代、男は皆この格好でした。
 栄橋は、千葉県の布佐と茨城県の布川を結ぶ、利根川に架けられた鋼鉄の吊り橋でした。竣工は昭和3(1928)年、サンフランシスコの金門橋のミニチュアのような瀟洒な橋で、有料ということでも話題を呼びましたが、昭和19年には無料になっていました。

 布川(利根町)は、『利根川図志』の著者である医者、赤松宗旦の生地です。『利根川図志』は、流域の歴史や生活、伝説、地理、物産などを伝えた幕末の名著で、戸田井ノ渡は「筑波山東北に見えて景色最よし」と書かれています。私の曾祖父は宗旦の友人でしたので、出版の後援もしたそうです。
 曾祖父、永田源一郎義成は、佐倉順天堂で学び、水戸徳川家江戸屋敷の蘭方の御典医を務めたことがありました。上席の医師は、漢方3人、蘭方2人の五人だったそうです。病状の判定の時に多数決が決着するように、医者の数は、奇数の5人であったと聞いています。
 幕末、水戸の天狗党が戸田井の屋敷に押し入ったそうです。家の者、全員が縛られたけれど、誰も怪我一つしなくて良かったと、子供の頃、父から聞きました。そのかわり、千両箱はとられてしまいましたが......。
 父が本郷や松戸に暮らしたのは、この水戸藩との縁あってのことでした。本郷弓町には水戸藩の御長屋がありました。松戸には、最後の藩主、昭武公の隠居所、戸定邸(現、戸定館)があります。
 昭和29年秋に、松戸で水戸様と呼ばれていた戸定邸の当主が亡くなりました。読売新聞広告部に勤務していた私は、「家が近所だろう」と、朝日新聞の訃報広告を見た上司から、広告掲載の勧誘に行くよう命じられました。たまたま同期社員に、最後の将軍、慶喜公の曾孫、徳川泰章君がおり、「親戚だろう」と命じられた彼と同道、弔問することになりました。
 この時代、財産税を課された旧華族の台所事情は大変苦しく、広告は断られましたが、穏やかな死顔を拝むことができました。これも御典医の曾祖父の縁だったのでしょうか。

 利根川図志と同じく、赤松宗旦が著した『布川案内記草稿』には、元々、府川であったのが、徳川家康公の命により布川となったという逸話が収録されています。
 慶長9(1604)年、関ヶ原に勝利し天下統一を成し遂げた家康は、鹿島神宮に御礼参りした帰りに、府川の頼継寺に立ち寄りました。寺の三世日山和尚が、岡崎時代の学問の師だったからです。
 寺の名は、永禄3(1560)年に開基した府川城主、豊島頼継に由来し、寺内には、頼継が先祖の地、摂津から運んできた見事な枝振りの松がありました。家康は、この松を大変気に入り江戸城に持ち帰り、後日、代わりに梅の木を寺に贈りました。この梅は、「松替の梅」と名付けられました。
 この折、家康が「府川」の地名を「布川」に、「頼継寺」という寺号も家康が寺に来見したことに因み、「来見寺」と改めさせたそうです。
 この時期、小貝川は現在の場所にはなく、府川城や来見寺は、一色氏の居城だった小文間城と地続きでした。城之内と呼ばれる小文間城址は、戸台とも表記されていた戸田井の近くですが、かつて永田家の本拠がありました。戸田井は義成の隠居屋敷で、父がなまずを飼った池は、城の濠の一部だったという伝承もあります。

 北相馬は、古くは平将門公の生まれた地、また伊勢神宮の御厨があったところです。
 昭和12、3年の頃、常磐線の二等車両(普通車両の2倍半程の料金)を通勤に利用していた父は、我孫子から乗車する文人の杉村楚人冠氏と、度々乗り合わせることがありました。
 杉村氏は、将門が非道な逆賊とされていることに憤り、父も大いに共鳴し、2人は、民に仁政を布いた立派な人物、将門公の復権について熱く語り合ったそうです。父は、自分の母親が北相馬の古い一族、海老原家の娘なので、母方で将門と繋がっていると信じていました。

 戦国時代は、相馬氏を始め、関東武士たちの群雄割拠の舞台となった平野に、徳川家康は江戸入府とともに、江戸経済の動脈となる水路の大改革を始めました。
 関東平野は、利根川、渡瀬川、荒川など幾筋もが入り乱れ、たびたび洪水にみまわれていました。古利根川は江戸湾(東京湾)に注ぎ、銚子に流れていたのは常陸川でした。台地を切り開き水路を作り、点在する湖沼をつなぎ、この2本の流れを1本としたのです。
 利根川の東遷事業は、文禄3(1594)年から承応3(1654)年にかけて、優に60年の歳月を要した大事業でした。
 家康に命じられた関東郡代、伊奈一族は、忠次から三代に亘り工事にあたりました。
 寛永7(1630)年、戸田井と羽根野(現、利根町)の間の丘陵部を掘り割り、小貝川を常陸川に合流させ、府川と布佐の間を開削して、常陸川の流れを付替えるという大工事が行われました。
 天神山からは、利根川に小貝川が合流する景観が望めます。家康は完成を見ることなく没しましたが、この景観こそ、中国の故事にもあるように、大河を治めた覇者たることを実感できる証となったはずです。
 徳川家康から康の字を貰い、康成と名乗った先祖がいたと、昌雄兄は生前の父から聞いています。永田家の先祖が相馬の小文間に移ったのは、関ヶ原の合戦の少し前のことのようです。川の付替え工事に重要な土木技術を有していたので、一族郎党と共に移住を命じられたと思えます。江戸時代は、代々、医者であるとともに、戸田井組組頭として、戸田井河岸の管理の仕事にも携わっていました。
 おそらく、康の字を貰った代償に、要衝の地である、合流点を一望にできる風光明媚な土地と川を守るという使命を、家康に課せられたのかもしれません。
 両岸が下総の国であった江戸時代、江戸銚子間の水運の全盛期には、坂東太郎と異名を持つ利根川は、高速道路の役を担っていました。河岸や渡しはインターチェンジ、利根川と小貝川の合流はジャンクションでしょうか。
 近所の船宿、伊勢屋には、この頃も5艘の屋形船がありました。江戸時代は、成田山詣や、取手を中心に両岸にひろがる新四国相馬霊場八十八ヶ所詣で賑わったこの辺は、戦時中でも月に2回ぐらい、参詣の講中が宿をとっていました。小文間村にも霊場があります。らいてうさんも、伊勢屋の屋形舟を利用したことがあるそうです。

 私が鳥を生け捕るのに使った、地元でパッタンと呼ぶ藤蔓と竹で作った手製の罠は、今は東京芸大取手校の敷地になっている、とんび山周辺の丘陵に仕掛けていました。そうして捕まえた鳥を、やはり手製の籠で飼っていました。
 とんび山は、栗山とも呼ばれていました。父は若い頃、この丘陵地帯に牧場を作ろうと思ったのですが、その計画を止めて植えた栗の木が育ち、栗林になっていたからです。
 東京芸術大学取手校が開校したのは、平成3(1991)年のことですが、芸大ができるかもしれないと知った父は、郷土にとってどれほど素晴らしいことかと考え、当時の学長に真意を確認しました。用地の収容は、昭和50年代の半ばに始まったと記憶していますが、父は、率先して、かつて牧場の夢を描いた土地を提供しました。
 また、屋敷地の向かいには、芸大開校の少し前に県立取手松陽高校ができ、普通科とともに音楽科と美術科も併設されています。この高校から、芸大に進学する生徒もいるそうです。小文間から世界的な活躍をする芸術家が羽ばたいていくことは、今は亡き父にとっても、喜ばしいことでしょう。

 2月のある日、パッタンで捕まえて飼っていたホオジロに、餌をやろうと籠の戸を開けたら、手の隙間から逃げられてしまいました。吹き抜けの梁にとまったところを捕まえようと、折りたたみ椅子に乗って背伸びをしたら、バランスが崩れ、椅子がバタンと閉じて落っこちてしまいました。
 胸をコンクリートの床にしたたか打ちつけ、しばらく息もできずに横たわっていたちょうどその時、庭からの出入口のガラス戸が、ガラッと開きました。どうにか顔を動かして見ると、もんぺ姿の平塚らいてうさんが立っていました。 「あらあら」と言ったきり、らいてうさんは立ち竦んでいます。ウーンと呻いて顔を伏せた私が次に目を開けた時には、らいてうさんの姿は消えていました。
 普通のおばさんだったら、抱き起こさないまでも近くに寄って「だいじょうぶ」と声をかけてくれるのに......。正直言って、変わった人だなあ、と感じました。
 私がらいてうさんの姿を間近で見たのも、声を聞いたのも、この一度だけです。

 艦載機の飛来が多くなった昭和20(1945)年2月、「敵機動部隊 鹿島灘沖に遊戈中」の警報が発令されると、グラマンF6Fが出現し、白昼、小貝川上空1000メートルで空中戦が行われるのも珍しくなくなりました。とんび山から急に現れたグラマンが、池の畔にいた私の方に向かって来て、夢中で竹藪に飛び込んだというゾッとする体験もしました。
 ある晩、いつになく鈍いエンジン音が次々と聞こえてきます。外に出た私の目に飛びこんできたのは、真っ赤に染まったB29の巨体でした。40キロも離れているのに、東京の地獄の業火が機体に映って赤く見えたのです。
 「東部軍管区情報B29の梯団は鹿島灘に向かって遁走中」とブザーの音と共にラジオは叫んでいましたが、とても遁走している様子には見えません。低空を悠々と飛び去って行きました。3月9日、夜10時頃のことでした。
 4月、小貝川の上空は比較的静かでした。霞猟が終わった春は、我が家の小型の屋形船の屋形の部分をはずして小貝川に浮かべ、みみずを餌に長縄漁や置針漁などをしました。うまくいくと、うなぎやせいごなど、一回の漁で4、5匹捕れました。池では、凧糸に針をつけた置き針を岸辺に刺しておくと、30本の針で3、4匹のうなぎが捕れることもあり、他には鯉、鮒、ナマズ、雷魚も釣れました。
 ある日、空気銃を持ってとんび山方面に出かけようとした私は、博史さんに呼び止められました。
 「僕の友達で鳥が好きな人がいるんだよ。今度会った時、このあたりにいる鳥の種類を教えてあげたいから、幸夫さんの知っている名前を教えてよ」と、鉛筆を持ち、手帳を開いて私に聞きました。
 「チョマ、頬白、目白、ひよどり、百舌、かけす......」と、私は得意になって、知っている限りの10種類以上の鳥の名を挙げました。チョマとは、つぐみの方言です。
 博史さんは、嬉しそうに、手帳に書きとっていました。
 「ありがとう。友人はね、日本中の山を鳥を訪ねて歩き回っているんだ」
 後に、その友人とは、日本野鳥の会の創始者の中西悟堂氏だったのでは、と思い当たりました。彼の著書『野鳥と共に』は私の愛読書だったので、疎開の折りにも手元にあったのです。サインでも頼んでおけばよかったものをと、少し心残りに感じました。

 5月に入ると、学徒勤労動員で東京の工場で働いていた龍雄兄は、身の危険を感じ、実家に帰る友人を頼り信州への疎開を決めました。一足先に行って、疎開の手はずを整えてくれました。荷物をしまった一階座敷の押入だけを釘付けして、昭和20(1945)年5月25日早朝、両親と私は戸田井を後にしました。
 再疎開した先は、兄の友人の家の2階の6畳一間で、バス停の前に建つ家でした。但し、戦時中は日本全国、バスはほとんど運行されていないので、町に出るのは歩きでした。ガソリンが配給制となり、バスは代用エネルギーの木炭バスに変わりましたが、それすら、戦争が始まると、走ることは少なくなりました。
 ところが、その家に落ち着いたのも束の間、当座の部屋代と食事代として、兄の友人の養父にかなりの金額、2000円を渡したら、途端に嫌がらせをされ、1ヶ月でその家を出るはめになってしまいました。
 兄は、友情と親との板挟みで、とても辛そうでした。それを見かねた母は、見ず知らずの土地で果敢に家探しを始め、飛び込みセールスのように訪ねた大きな農家で、広い蚕室がある2階建てを1棟ごと、借りることができました。バス停の前の家から、30分くらい山の方へ入った所にありました。但し、居住用建物ではないので生活設備はなく、2階の板の間に畳やムシロを敷いて座敷を作りました。また、屋外に粘土でかまどを作ったり、便所を掘ったりもしました。ノミだらけなのは苦痛でしたが、キャンプみたいな生活とも言えました。
 住民票を移動したので配給は受けられましたが、山の中ですから、不自由はありました。
 霞網の適地もなく、うなぎの釣れる川や池は目の前にはありません。田の用水堀に鯉を見つけた私は、「しめた!」と思って釣りました。鯉は父の大好物なのです。ところが、次に釣りに行った兄は、捕まってこっぴどく怒られてしまいました。ここの鯉には所有者が決まっていたのです。父は、魚を食べないと体調が悪くなるという、少し困った体質でした。すっかり痩せ細った父を心配し、母は石鹸とドジョウを交換しました。疎開者は当時、こうして食糧を手に入れたものでした。

 呉服屋の娘なので、母は、物々交換がうまかったのでしょうか。母、薫は、本郷林町、団子坂上の渡辺呉服店の長女として育ち、団子坂小町とも呼ばれた看板娘だったと、私は子供の時分から聞かされていました。父も同じ本郷の弓町に下宿し、京華中学に通学していたのですが、その頃は、まだ、呉服屋とは縁はありませんでした。
 当時の団子坂は、道幅は広いけれどもかなり急な坂なので、市電も人力車も通らず、静かな所だったという記憶があります。店は、駒込電話局の先、住宅地が後ろに控えた商店街にあり、間口4間程の2階家の角店でした。
 父が林町周辺に貸家を持っていたので、母は家賃の集金がてら、私を連れて実家に寄るのでした。その頃、祖父母は隠居しており、戸山小学校の教師になっていた末息子の茂叔父夫婦と、早稲田で暮らしていましたので、母の次妹、三枝子叔母夫婦が店を継いでいました。
 気に入った反物が見つかると、「あら、これいいわね。まけなさいよ」と始まります。「おねえさん、堪忍よぉ」と言われても、母は反物を離しません。「三枝ちゃん、いいじゃない。あとで活動おごるから」という、いつものやりとりの後、タクシーを呼び3人で有楽座か日比谷劇場に行くのです。反物を2、3本、しっかり抱きかかえ、チャップリンのモダンタイムズやターザンの映画を観るのが、母の月1回の楽しみでした。
 そんな母の着物も、戦後の竹の子生活で1枚づつ食糧に変わり、全部なくなってしまいましたが、母の手腕が、信州での疎開と戦後の食生活を支えてくれました。

 昭和20(1945)年8月15日は、上田から3里離れた疎開地で迎えました。「明日は重大な発表がある」と、父は前夜から日本刀を磨いていました。どうやら、「国民全員自害せよ」との御触れが出ると思っていたようです。
 少年だった私は、ソ連が参戦した8月9日には恐怖を覚えましたが、玉音放送を聞いたこの日は、何だか拍子抜けした、という思いでした。
 その夕方、ラジオから突然ハワイアンが流れました。龍雄兄は、これからは家にあるハワイアンのレコードを心ゆくまで聴けるぞと、大喜びで踊り出しました。父は「今日という日を何と心得る」と叱りつけましたが、今度は自分の好きな「梅は咲いたか、桜はまだかいな~」が聞こえてきたのには、呆気にとられていました。

 戦争は終わりましたが、進駐軍について不穏な噂がありました。しかし、東京が大好きな龍雄は、いてもたってもいられず、9月には単身、父の制止を振り切って帰京してしまいました。
 兄は、「アメリカ兵は、ポパイの映画に出てくるジープという車を乗り回し、乱暴もしないから大丈夫」と、手紙を送ってきて私たちに催促しましたが、父が腰を上げたのは10月初めでした。疎開者の多くが、この時期に家に帰りました。

 私も中学に戻る時が来たわけです。学年をまたいで10ヶ月も休学したのですから、1年生に留年のつもりで先生に申し出ると、「どうせ、皆も勉強なんかしていないから、2年でいいよ」と、おおらかな返事を戴きました。
 しかし、あれから半世紀以上経ち、早70歳となってクラス会に出席した折、疎開をしなかった連中から、「俺達は君みたいに逃げたんじゃなくて、帝都防衛で頑張ったんだ」と言われました。東京に残った開成中学の同級生たちは、類焼を防ぐための建物の強制疎開で、家々を取り壊す作業に動員されていたのです。疎開をしたのは、10人中3人ぐらいでした。何となく気がさして、クラス会には出にくくなってしまいました。

 戦後の2年間ぐらいは、思い出したくもない、不快な記憶でいっぱいです。「退却」を「転進」、「敗戦」を「終戦」と、瞬時に変えてしまう用語のセンスには、感心はしていたのですが、敗戦は、間違いなく敗北でしかありえないのが、日本の実態でした。
 戦争中には、それなりに張りつめたモラル感が保たれていたように思えました。しかし戦後は、明らかに気抜けし、社会全体が恥知らずになってしまったように感じました。価値観が崩れ、あまりに行き過ぎた軍国主義の反動で、今度は、何でもかんでも民主主義になってしまいました。預金封鎖、新円切替などが、インフレ亢進に拍車をかけた食糧難の時代、中学生の私は、通学電車の中や学校でも、嫌なものを見聞きし、体験しました。戦争中よりも、戦後の方がひどかったのです。
 学校では弁当泥棒が相次ぎ、生徒たちは戦々恐々としていました。先生は届けを受けても、犯人探しをするわけにもいかず、「皆には言うな」と言わざるを得ない悲しい状況でした。
 先生も栄養失調で、いつも青い顔をして、授業中、黒板にもたれかかるので、後頭部の髪は白墨の粉でまっ白になっていました。それもそのはずです。私は先生の弁当を見てギョッとしました。青い小さなトマトが2つしかなかったのですから。
 この頃の交通機関の混雑は凄まじく、通勤客と大きなリュックを背負った買い出しの人々が入り乱れ、身の毛のよだつようこともありました。
 電車の中は、あばら骨が折れるかと思うほどのすし詰め状態でした。車両の連結器に立てれば上等な方です。冬は寒くても夏は涼しく、1人か2人しか立てない狭い足場ですが、かえって車内にいるより楽なのです。汽車のデッキにぶら下がることもありました。

 11月には三男の昌雄兄が生還しました。復員して間もなく戸田井へ行った兄は、見ず知らずの人たちが別荘に暮らしているのを発見し、驚きました。
 別荘を貸したことを、兄は知らされていませんでした。出征前に父から聞いたことは、「平塚らいてうをどう思うか」という質問だけだったのです。兄の答が父の期待に反していたのか、話はそこで終わってしまったそうです。
 別荘で、足の不自由な若い男性を見かけたので、兄は、らいてうさんの息子だと、ずっと思っていたそうですが、長女の夫でした。らいてうさんの長女一家は、5月25日に東京を焼け出されてから、しばらく我が家で暮らしていたそうです。
 昭和20(1945)年5月25日は、私たちが信州への疎開に旅立った日ですが、源一郎伯父の世田谷区中原(現、代田)の永田医院が空襲で全焼した日でもあります。目標は500メートルほど先の根津山(現、羽根木公園)の高射砲陣地でした。
 伯父は信州、戸倉に疎開していたので無事でしたが、医院敷地の地主である、お隣の谷亀さんの奥様は、お気の毒なことに、避難途中に焼夷弾の直撃を受け亡くなられたそうです。医院の前の、小田急線の世田谷中原駅も、ホームを残して焼けました。
 東京の家も医院も失った伯父の希望は、寒い冬になる前に戸田井へ帰郷し、医業を再開することでした。でも、らいてうさんの都合を考慮し、翌21年3月の別荘明け渡しを、伯父の養嗣子でもある昌雄が伝えました。

 父の会社の工場は、昭和20年6月に爆弾が落ちて跡形もなくなっていましたが、負債はなくなりません。戦後処理に追われ、戦争中から続くインフレにも直撃され、我が家の生活は、どんどん苦しくなっていきました。
 昭和21(1946)年1月、龍雄兄は急に高熱を発し、病床に伏しました。最初は肋膜炎と診断されましたが、奔馬性結核だとわかりました。今は粟粒結核と言われていますが、文字通り奔馬が暴走するように、大変に進行の早いの結核なのです。勤労動員の工場で感染していたのでしょうが、栄養失調の痩せた身体ですから、ひとたまりもありません。
 元々、芋や豆が好物だった私にとっては、米飯が食べられてても<ママ>影響はありませんでしたが、これでも同じ兄弟かと疑うほど、私と嗜好の違う龍雄兄は、戦争中、食べたい物が食べられず、必然的に身体は弱っていました。戸田井に疎開しなかった兄は、その間、ろくな食生活をしていなかったはずです。何しろ彼の常食のバターを塗ったトーストにハムエッグなど、食べられっこありません。
 龍雄は、父の事業が一番景気の良い時代に生まれたこともあり、特に可愛がられ、丸ビルのキャスル、銀座のアラスカ、エスキモーにも、事あるごとに両親と食事に出かけていました。たまに私も、付録のようにお供したのですが、彼が美味という牛タンの味わいは理解できず、焼きりんごに喜びを感じていました。
 ペニシリンが効く、進駐軍からヤミで1万円(現在の500万円くらい)でなら手に入るかもしれないと、父はどこかから聞いてきました。しかし、その金額もさることながら、入手ルートも見つかりません。頼みの綱の医者、源一郎伯父は、らいてうが戸田井を退去しないので、まだ、疎開先の信州戸倉に足止めされていました。
 高熱が引かない龍雄兄の水枕に入れる氷を取りに、昌雄兄と私は、近所の田圃に出かけます。田に張った、ガチガチに凍った泥水の氷を割り、バケツに入れて運びました。ふと見上げた夜空には、月が冴え冴えとしていました。
 昌雄兄は弟のために卵や餅などの食糧を求めて、戸田井まで自転車で水戸街道を走りました。片道、30キロはあるでしょう。私も松戸の田圃に霞網を張りました。近郊の農家にも、卵を分けてもらいに行きました。

 3月初め、昌雄兄は従姉(父の次兄、忠助の長女)と共に戸倉へ出かけ、伯父夫妻を連れ帰りました。その頃、長兄、秀男は消息不明でした。シベリアから手紙が届いたのは、この翌年です。月末、龍雄と一番仲の良かった兄、英二が復員しました。
 4月16日、病状が安定したようなので、私と昌雄は、息抜きのつもりで戸田井に行きました。2階には博史さんがいましたが、ひっそりとしていました。事前に連絡をしていた訳ではありませんが、誰かが寝泊まりしている形跡もなく、1階座敷は空いていたので、私たちは、押入から布団を出して泊まりました。
 翌日、家に帰ると、龍雄兄は亡くなっていました。享年18でした。

 この時期、無医村状態にある小文間村から、一日も早い医者の帰村を望む村民の要望が、父のもとに届きました。しかし父は、実は四男の龍雄が最愛の息子だったので、放心状態に陥っていました。らいてうさんの成城の家は焼けていないのに、3月を過ぎても約束は実行されていませんでした。
 5月初め、昌雄兄が、らいてうさんに村民の要望を伝え、早期の明け渡しを求めました。父では埒があかなかったので、戦争帰りで気が荒くなっていた兄が、買ってでたのです。
 「あと一月待ってください。必ず出ますから」と言われたので、「もう出ただろう」と頃合いをみて行ったところが、別荘の門の脇に、真新しい木の立札が立っていて、墨跡も鮮やかに「眉安荘」と書いてありました。
 兄はその立札を引っこ抜くと、竹藪の中に放り込みました。自分の家でもないのに、このままずっと居座るつもりなのかと、非常に腹を立ててのことでした。父の好意で無料で貸していたのが、かえっていけなかったのか、とも思ったそうです。

 その後ずっと、「この次までは必ず出ますので......」というやりとりが、兄と夫妻の間で繰り返されることとなりました。そのおかげで、兄には私の何倍も、夫妻との思い出があるのです。
 大学に復学した兄は、平日は授業がありますから、土曜日の午後、夫妻が引っ越したかを確かめに、自転車で出かけます。その夜は1階の座敷に泊まり、日曜日に家に帰ってきます。
 ある日のこと、らいてうさんが台所に立って、鍋でコトコトと、何かを煮ていました。「これを食べると、癌にならないのですよ。どうですか?」と勧めてくれたのは、玄米でしたが、兄は「せっかくですけど、玄米、嫌いなんですよ」と断りました。
 兄が朝鮮半島から復員したことを知ると、「それは、ご苦労様でした。私の息子は内地でしたが、あなたは外地ですから」と、らいてうさんは色紙を書いてくれたそうです。
 しかし、もらった色紙をどうしたか、兄は覚えていません。色紙よりも、夫妻が出て行ってくれることの方が、どんなに有難かったでしょうか。博史さんしか、我が家の別荘を使っていない状態でしたので、それほど、我が家に固執する理由が、わかりませんでした。

 博史さんは、戦後も堤で山羊に草を食べさせていました。私の親戚の当時小学生だったひろし君が、山羊の乳搾りをしてあげ、ご褒美にチョコレートを貰っていたそうです。博史さんとは名前が同じ、ということで仲良しになった彼は、夫妻が東京に戻る時、必ず家に遊びにおいでと言われました。新宿駅から小田急線に乗って成城学園で下りて、駅で、「平塚らいてうの家」と尋ねればわかるよ、と説明を受けたけれども、ついに行かずじまいだったそうです。
 ご褒美のチョコレートの話を聞いたのは、つい最近のことですが、「えっ、チョコレート?」と、思わず大きな声で聞き返してしまったほど、今でも、非常に羨ましく思いました。戦争中は、何年間も、チョコレートなんて、食べるどころか見ることすらできかったのです。そのような貴重品のチョコレートを、どうして博史さんが持っていたかは知りませんが、少年の日から60年近くも経っているのに、山羊に石をぶつけたから、私は貰えなかったのかもしれないと後悔してしまいました。
 ところで、博史さんは、山羊の乳は本当は嫌いだったそうです。食糧事情は戦争中より悪いのですから、「そんなこと言っている場合じゃないでしょう」と兄が言うと、「だって、ションベン臭いのだよ」という返事でした。
「これ、洋行の時、パリで買ってきたのですよ」と、ある時、博史さんは兄にオルゴールを見せました。
「こういうのって、よく銀座の夜店で売ってましたよね」と、何とはなしに口にしたら、なぜか彼は、そそくさと2階に上がって行ってしまったそうです。兄はその後ずっと、夫妻に洋行経験があるものと信じていましたが、彼らは日本を出たことはありません。

 疎開先から戻った伯父は、世田谷区宮坂の、既に亡くなっていた次弟、忠助の子供である甥と姪の家に身を寄せていました。しかし、世田谷の食糧事情は深刻でした。何しろ昭和21(1946)年5月12日には、米よこせ一揆が起きたほどなのです。ムシロ旗を立てた世田谷区民が、宮城にデモをして、新聞でも大きく取り上げられました。
 伯父たちは、何とかして食糧を得ようと庭に麦を蒔きました。そこまではよかったのですが、素人の悲しさで、未熟の実を食べてしまった伯父は下痢が止まらず、いっぺんに衰弱し、とんだ医者の不養生になってしまいました。
 松戸の家の庭は畑と化していました。かぼちゃの蔓が巻き付いて、5、6本あった松が全部枯れてしまいましたが、かぼちゃができれば御の字です。家の前の道路脇には、枝豆を植えました。町中の道ばたで、野菜が作られていました。済組で借りた、町はずれの赤土山では、皆が、サツマイモを栽培していました。長村整えた松戸でも、この状態でした。自家製では賄えない物、足りない物、米などは、近郊の農家から分けてもらうのですが、お金だけでは譲ってもらえません。着物やおもちゃ付けなければ、だめなのです。
 戦争前から、大きな籠を背負って野菜を売りに来ていた小母さんがいました。母は戦後も、その人から必要な物を買っていたのですが、ある物となら交換すると言われました。それは龍雄兄の遺品の模型機関車でした。私たちが、座敷から台所にまで線路を延ばして遊んでいたのを、以前に見かけて覚えていたのでしょう。生き残った家族が食べて行くには、手放さなければなりませんでした。こうして、母の着物だけでなくアイロンすら、めぼしい物はすっかり無くなりました。それでも、遠方に買い出しに行かずにすむだけ幸せでした。

 この頃、買い出しにまつわる惨劇は、巷のそこらかしこで見られました。学校帰りのある日のこと、私は、国電日暮里駅のホームで電車を待っていました。しかし到着した常磐線、平行きの下り列車は満員で、とても乗れる状態ではなかったので、それに乗るのは諦め、列車が出るのを待つことにしました。すると、買い出しに行くと見受けられる男性が、石炭車にはい上がりました。リュックを傍らに置き、座り直そうとしたのでしょうか、腰を上げた時、吊革のように頭上の架線を掴んでしまいました。
 目の前で起こったことに、私は、一言も発することができませんでした。火花は見えなかったのですが感電でした。その人は、瞬間、苦悶の表情を浮かべ、はね飛ばされて石炭の上に倒れこみました。しかし、誰も騒ぎません。
 死んでしまったのか、どうなのか、わかりません。
 今のように、救急車が来るわけでもなく、駅員が駈け寄るわけでもなく、人が集まるわけでもなく、満員の列車は、そのまま駅を離れて行きました。
 また、ある日のこと。「一斉」と叫ぶ声が上がると、買い出し荷物を担いだ人達が、必死に逃げ惑います。警察に捕まると、やっとの思いで手に入れた食糧すべてを、ヤミ食糧として没収されるからです。
 ホームから飛び降りた小母さんが、あっ、と言う間もなく、反対側から来た列車に巻き込まれてしまいました。買い出しの仲間の小母さんが、「もう嫌だ、もう嫌だ」と泣き叫んでいました。これも、ひどい思い出の一つです。
 このような日常の中で、時折、魚や鳥が捕れる戸田井に帰れたらなあ、らいてうさんと博史さんは、どうしているのかなあ、と思うこともありました。私には学校があるので、戸田井に住むのは叶わぬ夢でしたが......。

 食糧問題は本当に深刻でした。伯父夫妻は、1日も早く戸田井に帰りたいと、昌雄に催促します。何よりも、生まれ故郷に帰って、心身ともに休息したかったのだとも思います。
 小文間村でも、村民が「医者さん」の帰りを待ちわびています。
 皆に、「まだか、まだか」と急かされていた昌雄兄は、すっかり困り果ててしまいました。誰もが大変な思いをしている時代でした。同じ東京の世田谷に家があったのですが、らいてうさんの家は焼けずに残っていて、源一郎伯父は家と医院は、焼けてしまいました。困った時はお互い様と言いますが、戦争中の父は、その気持ちでしたから、2階の博史さんを追い出したりしなかったのです。今度は、らいてうさん達の番ではないでしょうか。できるだけ早く、戸田井を返してほしいと、昌雄兄は思いました。皆の思いも同じでした。
 兄も、らいてうさんの姉上に会ったことはなかったのですが、「川口山に戻ってくれませんか」とも、頼んでみました。戸田井の別荘からも見える、本当に目と鼻の先、呼べば聞こえるような距離に、姉上の家はありました。そちらに住めば、無理に、食糧事情の悪い東京に帰る必要もないわけです。
 それでも、らいてう夫妻は、ただ、「出ます、出ます」と繰り返すだけでした。その様子は、こちらの話、医者が帰らなければならない話など、全然信じていない風でもありました。
 父も悩んでいました。日本が日々変わっていくのに、らいてうさんは何故、活動を再開しないのか......。
 そこで父は、「あなたの時代、日本に女権の時代が来たのに、何をしているのですか。今戻らないと忘れられちゃいますよ」という伝言を、息子に託しました。その言葉は、父の紛れもない真意でした。昌雄も父に共感し、懸命に説得にあたりました。
 「このまま比処にいて、どうするつもりなのですか?時代に乗り遅れちゃいますよ」
 それでも、彼女は動きません。
 切羽詰まった兄は、とうとう窮余の一策を講じました。1階座敷の障子戸に板を打ち付け、出入り不能にしたところ、実にあっけなく、夫妻は東京へ戻りました。

 なかなか東京に帰って来ないらいてうさんに、神近市子さんや市川房枝さんら、仲間たちが、帰京を促す手紙を出していたことは、らいてう自伝を読んで知りましたが、私と同年の妻、良江は、当時、平塚らいてうは死んでしまったのかと思ったそうです。
 立教女学院高等部2年だった良江は、らいてうが帰京した頃、森田草平の『煤煙』を偶然に読んだところでした。
 「この心中未遂をしたらいてうとか言う人、女性運動家だったわよね?けれど他の皆さんが活躍しているのに、今、全然名前を聞かないから、もう亡くなっちゃったのかしら」と、教室で何気なく口にしたところ、「親戚が成城に住んでいるのだけど、最近、やっと疎開から帰っていらしたそうよ」と友人の一人が答えました。
「あら随分長い疎開なのねえ」と驚いたとのことですが、その疎開先の息子と結婚するとは、何とも不思議な巡り合わせです。

 源一郎伯父は、昭和22(1947)年3月、夫妻が東京に帰った後、やっと帰郷することができました。
 姪を看護婦に、一階を診療所として医院は再開しました。2階を3人の居室にあてました。多くの患者が通って来て、近隣の村の住民も、牛車に患者を乗せて診察に訪れたそうです。米1升が診察費でした。医師、永田源一郎と戸田井にあった医院について、小文間村の郷土史『小文間史』には次のように記されています。
「沈着なる風は病者の信用を厚くし、慈愛の精神は貧患に同情を寄せ、真に医は仁術なりと謂うに背かず。時にありて一部施療或いは全部施療をもなし、来診を乞うあれば敏速を主とし親切なるままに日々繁昌に趣き近時は病室を増設し、看護婦を置き、大に発展せり。凡そ文明風の仕方にして室は高燥眼下に山水の美をとどめ、背は絶壁にして山上に至れば眼界尚廣く真に衛生に適せる地に学理、実験共に深遠から有せるの人ある偶然にあらず。猶個人の幸福のみならず、本村此の妙き人を戴くは真に本村の幸福なり。氏又教育に力を用い、一旦推されて学校医となるやトラホーム患者多きを憂いて、警察医の臨場を申請してまで熱心に治療し村内に跡を絶たしめんと熱中に居れり、これを以て明治45年度は村医として大に村衛生に敏腕を振うなるべし」

 医院解体後、東京に移る時、伯父は患者さんたちに、できるだけのことをして行ったそうです。何十年経ても、常備薬や処方箋を置いていってくれて、実の親よりも大事にしてもらったという人や、何に効くかはわからなくなってしまったが、今でも庭に医者さんがくれた薬草がありますよと話してくれる人、命の恩人だと言ってくれる人などに出会うと、本当に、源一郎伯父と村の人達との絆が強かったと実感できます。
 しかし故郷に戻ったのもつかの間、わずか2年足らず後の昭和24(1949)年1月15日、71歳で源一郎は他界しました。村では「もう少し早く帰ってくれていたら...」という声が聞かれました。また、らいてうさんの長居が、医者さんの寿命を縮めたと考えた人もいたようです。
 伯母のふみは、夫、源一郎の没後、姪の芳枝と共に世田谷の家に戻りましたが、4年半ほどして64歳で亡くなりました。

 らいてう夫妻が戸田井の別荘に滞在した、昭和18(1943)年から昭和22(1947)年の時期は、奥村博史さんの『めぐりあい」執筆の時期に符合します。この作品は、めぐりあう以前の彼女と他の男性たちとの関係への嫉妬も書きこまれた、二人の愛の小説だそうです。いつも二階がひっそりとしていたのは、執筆していたからなのでしょう。
 帰京の途上、夫妻は松戸に父を訪ねました。
 小貝川と利根川の合流点の風景を描いた博史さんの水彩画と、「裏山の 木の間明るし ひよの声」と詠んだらいてうさんの句に、博史さんのわくら葉の絵を添えた色紙を、「今までの御礼です」と、残して行きました。
 その日から20年余が過ぎたある日、父は小学生になったばかりの私の娘、優子に、にこにこと話して聞かせていました。
「この絵はね、奥村博史さんという人が描いたのだよ、平塚らいてうさんという立派な人の旦那さんでね。らいてうさんのことは、もっと大きくなったら学校で習うよ」

 教科書にも載っているので、平塚らいてうと言えば、彼女が物した「元始、実に女性は太陽であった......」と共に、この発刊の辞を掲げた、女性による女性のための雑誌『青轄』を連想する人は多いでしょう。
 この青緒創刊号に掲載された小説『生血』の作者、田村俊子は、明治17(1884)年生まれ、本名、佐藤とし。らいてうさんより2歳年上の同時代人ですが、私にとっては親戚のおばさんにあたります。
 俊子の父と私の曾祖母の実家は、小文間村の隣、六合村(現、藤代町)の浄土真宗東本願寺派の来應寺で、父たち兄弟は彼女の又従兄弟にあたるようです。俊子の父、了賢は浅草の富裕な商家、佐藤家の婿養子となり、浅草の十二階を建てたそうです。
 ずっと昔から、永田家と来應寺の真穂家は縁組みを重ねてきました。真穂家の祖先は、戦国領主であった下妻城主の多賀谷氏が京都から招聘した寺家ですが、関ヶ原の合戦の後、多賀谷氏がとりつぶされた時に、永田家の先祖が、真穂家の先祖を小文間に招いたという伝承があります。

 俊子とらいてうの学歴には共通点がみられます。
 俊子は、明治29(1896)年に、東京女子高等師範学校付属高等女学校(お茶の水高女)に入学しますが、1学期で退学し、東京府高等女学校(現白鴎高校)に転学。一級飛び級して明治33(1900)年に卒業し、翌年に創設された日本女子大学校国文科に第1期生として入学します。しかし遠距離を歩く通学のため心臓病にかかり、1学期で退学。明治35(1902)年、小説家を志し幸田露伴に入門しました。
 らいてうは、優子と同じく、お茶の水高女と日本女子大学家政科に入学し、どちらも卒業まで通いました。
 俊子の本格的作家生活は、露伴の門下で兄弟子であった夫、田村松魚に、生活のために強制されて泣く泣く書いた小説「あきらめ」が、新聞の懸賞小説に当選したことから始まりました。それは青軸の創刊と時を同じくした明治44(1911)年のことです。1910年代を代表する作家の1人、樋口一葉以来の初の本格的女性職業作家と位置づけられています。
 田村の姓を名乗っていましたが、夫、松魚とは未入籍婚でした。2人の関係の破綻を決定的なものとした恋人、鈴木悦を追って大正7(1918)年、俊子はカナダに渡り、日本人労働者を支援する悦の労働組合運動を助けました。悦は俊子を「生まれながらの近代人」と評し、「他の新しい女たちとちがうのは、彼女たちは頭だけで新しがっているが、俊子は頭も感情もすべて新しく一致している」と分析しています。
 俊子が滞在18年を経て日本に戻ったのは、昭和9(1934)年の春、悦が単身での一時帰国中に、盲腸手術が原因で亡くなった2年後のことでした。
 その後、昭和13(1938)年に彼女は中国に渡り、中国女性のための啓蒙雑誌『女声』を、17(1942)年5月の創刊から、左俊芝の名で編集出版していた上海で客死しました。昭和20(1945)年4月16日、享年61、脳溢血でした。インフレの戦時下での、資金調達は困難なものだったと思われますが、創刊から満3年を迎える36号までが、俊子の手によるものです。彼女の葬式には、多数の中国女性の会葬者が行列を成したそうです。
 俊子は、多額の印税を手にしても、競馬で一遍にすってしまったという逸話も残す宵越しの金は持たないタイプで、かなりの借金を残して亡くなりました。カナダでの生活も、晩年の上海での生活も、経済的には不如意だったようです。
 しかし、思いっきり生き、からっと死んだという印象が残ります。また、相続者がいないということで彼女の印税を基金とし、友人たちが創設し、20年ほど続いた『田村俊子賞』が、戦後の女流文学の発展に貢献したことで、彼女の借金も帳消しになったのではないでしょうか。
 なぜか父親の実像を明かさず、女学校の友人には父は軍医だと話していたそうです。父親の実家、来應寺に、俊子は滞在していた時期があると聞いていますので、永田家の当主として来應寺と交際していた私の伯父、源一郎と面識があったかもしれません。彼女より7歳年上で、軍医だったこともあります。もしかしたら、親戚である源一郎が、「軍医の父」のモデルだったのかもしれません。しかし俊子の亡き今、確かめることはできません。
 戦争中と戦後のある時代、平塚らいてうと姉、孝が避難していたのは、友人、田村俊子に縁のある土地だったのです。孝は、小文間の川口山で余生を送り、昭和37(1962)年4月16日に亡くなりました。俊子が異国の空の下で没してから、奇しくも17年後の同じ日です。東京に戻った妹、らいてうは、85歳まで生き長らえ、昭和46(1971)年5月24日に死去しました。
 最後に、田村俊子が、大正2(1913)年7月の『中央公論』、特集「人物平塚らいてう論」に寄せた『平塚さん』の一部を引用いたします。私が会うことのできなかった、若き日のらいてうさんが描かれているからです。

「ある日、染井の墓地をある女二三人して歩いていると、其の中の一人の平塚さんが立ち止つて自分の咽喉を撫でながら、
『XXさんがね。平塚さんの頭から上に男性的なところがあるって云つたの。』
然う云つて仰向いて自分の朝喉佛をいぢっている。成る程、女にしては大き過ぎるのどぼとけだと思ひながら、ひょいと見ると平塚さんの演に艶がある。
 それから顔を突き出して子細に点検すると、中々長くって濃い。普通の生毛とは違っている。
 女に顎髭のあるものはない。鼻の下には髭の形状らしく濃い毛が少しは密生する人もあるけれども、顎にこれだけの長い髭らしい一と塊りの毛を生えさせてる人はちょいと見ない。これで傍へよつて勘定を初めたら三十本を数へてもまだ数へきれない。肝腎の當人はくすぐったくつて我慢がしきれないと云つて、くすくす笑ふので、顎が動いて兎てもその先きを勘定が出来ないからやめてしまった。平塚さんに就いて私が發見したことはこれだけです。」
(田村俊子作品集・3オリジン出版センター刊より)

あとがき

 平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』の戦後篇は、戦中の小文間村への疎開生活から筆が起こされています。30年近く前、この書に接したとき、厳しい軍国主義の時代に平塚らいてうさん一家を温かく受け入れてくれた地があったこと、そしてその美しい自然の中でらいてうさん達が周囲の生活にとけ込み、生き抜いた姿に、安堵の気持ちを抱いたことを覚えています。らいてうと言えば、抑圧された女性の解放に向けて果敢な戦いをいどんだ女性であり、当時の社会や権力にとって危険な存在に他なりませんでしたから、彼女たちを迎え入れた地域の懐の深さに、ホッとした思いを持ったのです。
 この文を読んで、戦中戦後の苦しい時期に、らいてう一家に無料で安住の地を提供したのは、この地の旧家の子息である永田泰助氏であったことを初めて知り、疑問が解けたような気がしました。永田泰助氏は、リベラリストであり、また青踏運動の共感者であったそうです。らいてうさんのお姉さまからの借家の申し出でに対して、永田氏は「らいてうさんなら喜んで」と一瞬の躊躇もなく快諾されたと書かれています。しかも無料で。らいてうさん一家の小文間村での生活は、この永田氏の高い見識に多くを負っていたのでした。
 また、泰助氏の子息である少年の目で書かれたこの文章には、川辺の農村のたたずまいや畏村のたたずまいや戦時下の少年達の日常と共にらいてうさんの良きパートナーであった奥村氏の日常が生き生きと描かれています。これらが、また非常に興味をひく内容を形作っています。
大島美津子
(前専修大学教授)

(著者略歴)

永田幸夫(ながたゆきお)
 昭和7(1932)年生まれ
 早稲田大学教育学部卒業
 読売新聞社社友

(作者より)

拝啓 皆様ご清祥のこととお喜び申し上げます。このたび、『らいてうさんのいた頃』を送らせていただきます。恐縮ですがご高覧を賜れば幸甚に存じます。
 戦時中、茨城県北相馬郡小文間村(現、取手市)に疎開していた平塚らいてうに、私の父が住居を無料で約4年間貸しました。しかし、らいてう自伝における疎開生活の記述には、当方の建物を使用し始めた年月に始まり、固有名詞、地名、地理的数値・特徴を含め事実と異なる箇所が多々あります。らいてうが「正体不明の家主により虐待された」と読み取れる内容も、事実無根の虚偽です。このために私どもは「恩を仇で返された」ような窮状に陥りました。
 昨年、岩波ホールで上映された記録映画『平塚らいてうの生涯』では、年代の違う建物(私所有)が、故意に”らいてうが住んだ家”として登場しましたが、当方の指摘と証拠により該当場面は削除されました。
 それらを重く受けとめられた関科学技術振興記念財団の勧めにより、この小冊子を発行することとなった次第です。
 同財団は、王子製紙の副社長であった故・関博雄氏の遺産を基に設立され、各大学の名誉教授などをメンバーとし、自然科学、社会科学、人文科学の研究、出版への助成を行なっており、兄が監事を務めています。タイトルは、財団の評議員、みすず書房前社長、加藤敬事氏がつけて下さいました。
 ”あとがき”を戴きました大島美津子先生は、専修大学の史学コース立上げに関わり専修大学歴史学会代表の大任も果たされた、女性史研究の重鎮と伺っております。
敬具

Bibliography

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