東京芸大によって取手校地は上野に次ぐ第2のキャンパスとして構想、用地取得、建設、そして利用がなされてきたが、これに関する先行研究や著述は限られている。東京芸大とそのキャンパスの歴史についての文献は存在し、その研究は盛んになされているものの、取手校地について述べているものは見当たらない*1。取手校地について記述のある数少ない資料として『東京芸術大学百年史』の『大学篇』(2003)、『美術学部篇』(2003)と『音楽学部篇』(2003)とが挙げられ、うち『大学篇』では取手校地敷地の取得や、設置の為の準備室の開設等について取り上げられている。しかしその本文でも述べられているように、取手校地の「本格的な活動は百周年の年である昭和62年〔1987年〕以降であるため」*2、取手校地が開校した1991年や完成に至るまでの経緯については掲載されておらず、そもそも上野に次ぐ第二のキャンパスの候補地として取手が選定された背景については、全く触れられていない。取手校地の開校後についての資料としては、2009年に発行された『取手校地教育研究活動成果報告書』が詳しいことに加え、1999年に取手校地に設置された美術学部の先端芸術表現学科、同時期に形成された取手アートプロジェクト(TAP)について、文献やそれぞれが発行した資料が存在し、特に後者については日本のアートプロジェクト研究において盛んに論じられている。しかし、いずれにおいてもその前提となる取手校地の設置の経緯についての記述はほぼなされていない。これらの理由には、本稿で述べる通り、東京芸術大学(以下、「東京芸大」)の取手への進出に関して当時から学内で大きな議論が継続しており、大学として「正史」を形成することが困難であったことが挙げられよう*3。一方で、取手校地に関しては数多くの憶測や、事実とは異なる噂話などが存在し、その一部には根拠が示されず広まってしまっているものもある*4。これらを踏まえ、筆者の本稿での目的は、取手校地に関する「正史」を作り上げることではなく、当時の資料と当事者の証言をまとめることと、それを基にした一つの文脈の可能性を提示することとする。
取手校地の使用が開始されてから30年目となる2020年にその歴史をまとめる意義は大きい。開校に向けて当事者として携わった人物の多くは既に引退しており、お亡くなりになった方も少なくないことから、その証言をまとめる重要性は増している。一方で、2011年4月の「公文書等の管理に関する法律」施行など、学内外の公文書を開示するための環境も整いつつあり、今までは公にされていなかった文書も閲覧ができるようになってきている*5。今年度(2020年度)中を目途に、取手校地の新たなキャンパスグランドデザインが公開される見込みであり、一部の工事は既に着手がなされ、開校以来の取手校地の姿が大きく変わりつつある。本稿は、2020年の現時点において、これらの手段で取手校地について、特にその開校に至るまでの経緯について収集した情報を中心にまとめた。取手校地の過去を振り返るきっかけと、将来に向けた提言としたい。
〔注:本文中の記述には西暦・新字体を採用した。ただし人名の表記、引用文中の表記についてはそのままとし、引用文中の和暦については西暦を括弧内に併記した。
本文中の人名は敬称を略して記載した。〕