2ー1.1980年、突如生まれる「取手」構想

 「取手」に第2キャンパスを開設するという構想は、東京芸大の内部で、1980年頃から公式に議論されるようになり、以降約10年におよぶ構想と計画により完成する。

 二次資料には、1980年9月18日を起点とする記述が確認できる。当時の東京芸大の教職員により成る東京芸術大学百年史編集委員会が2003年に発行した『東京芸術大学百年史 大学篇』は「昭和62年度までに取得した取手校地敷地と、設置のための準備室開設まで」*6を取り上げており、ここでは「取手第2キャンパス構想は、昭和55年〔1980年〕9月18日、『芸術総合研究所構想』として出発した」*7とされている。この表現は、東京芸大美術学部が1995年に発行した『複合実技教育を目指して-取手校地における改革実施案-』と同一であり*8、この文書から引用されたものと推察される。さらに、平成6年度の国立学校施設実態調査の一部として、東京芸術大学が作成した「団地整備計画記録」という文書では「昭和55年7月」に「芸術総合研究所構想等及び土地選定について学長、局長打合せ」、「昭和55年9月」に「評議会の正式議題で取手市に16.5haの用地確保について、両学部の全面賛同を得た」との記述がある*9

 しかし、東京芸大に保管されている公文書には、1980年の9月時点で「取手」に関する言及が行われたという記録は残されていない。9月18日の定例評議会では「本学の将来構想について」という議題は議事要録は残されてはいるものの、ここではまだ「取手」に関する言及は見られない。初めて大学の新たなキャンパスの候補地として「取手」の地名が東京芸大の公文書に公式に記載されているのは、この次に開催された評議会である、10月23日の定例評議会を巡る以下の記述においてである*10

・将来構想の検討方法について
山本学長*11から、今後の概算要求に当っては、大学の長期計画に添って計画的に要求していく必要があり、このため9月開催の評議会で学部毎に検討することを依頼したが、併せて、大学全体の立場からも将来構想を検討する場を作る必要があるとの発言がありこれを了承した。
関連して白井事務局長*12から、昭和57年度〔1982年度〕概算要求の時点で*13、どのような要求事項をどうあげていくか、例えば本学として現在地のみで教育研究体制の充実を図るのか、他に新しい場を求め発展させていくのか等の基本構想と具体性のある計画を樹てていく必要があるとの発言があった。
次いで清家美術学部長*14から取手地区現地視察の状況報告があり、環境が絶好なので、上野地区、日暮里地区及び取手地区を一体のものとして関連を持たせた計画を樹てれば非常に発展性のある有力な機能が発揮できるであろうとの発言があった。
さらに種々の発言が交わされたが、結論として夫々の学部で11月中に具体制〔原文ママ〕のある計画を提示できるよう検討を進めることを確認した。*15

 ここでは、「取手」が言及されているのみならず、既に現地の視察の報告がなされ、何にとってかは記されていないものの「環境が絶好」であることが報告されている。このことから、公式な文書への記載はないものの、この時点より以前に取手への進出が検討されていたことがうかがえる。更に、この土地を上野と日暮里*16*17と合わせた計画として考える有効性が挙げられ、これらの議論は短期的な計画ではなく、将来に向けた大きな大学の計画として作成し、国に予算を要求すべきという文脈の中で検討されている。

 これらの記述において注目すべきことは、「取手」という具体的な地名が突如として挙げられていることだ。この評議会の前後で、上野以外にキャンパスが必要であるという議論や、その設置のために取手以外の候補地が記載されている大学の文書は、公式には確認できていない。当時の東京芸大においては、むしろ1960年代後半より音楽学部を中心に長らく検討されていた東京音楽学校時代からの奏楽堂の改築、移転が、1980年時点では学内外の人物、マスコミや政治家を巻き込んだ議論となっており、喫緊の課題であった*18*19。例えば1980年6月に行われた翌年度の概算要求に関する議論では、浜野音楽学部長から新奏楽堂建設の早期実現が要望されている*20。この奏楽堂に関する議論が、既存の上野の敷地のみで整備を進めることの限界を当時の東京芸大の上層部や関係者に意識させた可能性は否定できない*21。一方で「取手」の言及がはじめてなされる約6カ月前の1980年5月15日の評議会議事要録には「美術学部としては当初の計画通り運動場を確保できれば新旧奏楽堂計画をどのように進行しようと異存はない」*22との清家美術学部長による発言が記録されている。また、この同じ日の美術学部教授会で大学の整備計画が示されているが、ここにも上野以外にキャンパスを整備するという内容は確認できない*23。いずれの文書からも、現有の敷地の外に新たに大規模な大学用地を確保する必要性が広く検討されていた様子は、この時点ではうかがえない。

 ところが、前述の1980年10月の評議会以降、新たなキャンパスの利用計画は急速に具体化してゆく。この次に「取手」の記述がなされた1981年3月18日の評議会記録では、早くも美術・音楽の両学部が設置を希望する施設について記述がみられる。

2.大学の将来構想について
 山本学長から現在の大学の狭隘な場所からどのように発展させるか、また候補地として取手がでている。
 〔中略〕
 これを受けて藤本評議員*24から別紙資料1*25に基づいて、登り窯は公害を出す問題があり、学生を取手地区のような広大な場所で実習をさせたい。体験させることは非常に大切であり、できれば日本の陶芸窯として作りたい。
 浜野〔音楽〕学部長*26から、別紙資料2に基づいて芸術総合研究所及び舞台芸術総合研究所について説明があった。なお、邦楽、作曲、民俗音楽等が研究所案として出てきているが楽理科案のようにまとめた。また、オペラから出ている案は、美術学部にも協力してもらい舞台芸術総合研究として行きたいと云っている。
 これについて畑中評議員*27から声楽科案は第2国立オペラ劇場とタイアップして立案されている。イタリアオペラを見てもわかるように、特に日本の舞台美術は非常に後れている。また、大、小道具を保管する大きな倉庫がほしい旨、補足説明があった。〔以下省略〕*28

 ここでは、現有の土地である上野が狭隘であることから、公害問題が起こりうる登り窯や、広い空間を必要とする舞台芸術とその倉庫、そして「総合研究所」を取手の広大な土地に設置する構想が描かれている。またこれと同時に事務局からも「東京芸術大学総合研究所(構想案)」が提示されており、そこでは各種研究部門のほか「アトリエ村」、「実験工房」*29など郊外の広いキャンパスを前提としていると思しき施設も記載されている。繰り返しになるが、これらの構想は「取手」の言及を踏まえて述べられているものであり、それより前から公に要望されていたものではない。これ以降も、同様の「狭隘な上野で実現できない」設備や施設が挙げられ、その一部が整備計画として具体化してゆくが、これらは全て取手に新たに土地が取得されることを前提とするものである。

 当時取手市役所の職員として用地取得を担当していた佐藤清*30は、東京芸大が取手に進出するにあたり、最初の視察が行なわれる前から数年間、非公式の検討がなされていた可能性を指摘している。佐藤は筆者とのインタビューにおいて、取手市のその他の施設の用地取得などの経験から、こういったプロジェクトは内々で早くから話し合いが進められることがあるとしている*31。その上で佐藤は、取手市が国土庁学園計画地ライブラリーに登録した1979年*32には東京芸大の取手への誘致が水面下で行われていた可能性を指摘しており*33、取手市議会議員としても、市による誘致運動は「昭和54年〔1979年〕ごろから」あったとの発言をしている*34。このことを裏付ける一次資料等は公式には確認できていないが、前述の1980年10月の定例評議会の時点で既に視察結果が報告されていることからも、それより以前に何かしらのかたちで東京芸大と取手市の間で検討がなされていた可能性は、今後引き続き検証されるべきだろう。

 これらの証言や記述からは、新たなキャンパスの建設の必要性により取手市への進出の検討がなされたというよりかは、むしろ取手に土地が取得できる可能性がこの時期に生まれたことにより、上野以外の土地への施設建設が検討されるようになったと推測できる。では、なぜ取手という土地が1980年頃に突然、進出先として浮かび上がったのだろうか。

2ー2.『東京芸大を取手に紹介した葉梨代議士』にすすむ

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脚注
*6 東京芸術大学百年史編集委員会『東京芸術大学百年史 大学篇』(東京:音楽之友社, 2003), 4頁.
*7 Ibid., 408頁.
*8 東京芸術大学.『複合実技教育を目指して -取手校地における改革実施案-』(1995年1月12日東京芸術大学美術学部教授会資料より),1995年1月12日.,2頁.
*9 東京芸術大学.『国立学校施設実態調査(様式3) 団地整備計画記録(作成年度:6,学校番号0184,学校名東京芸術大学,団地番号008,団地名取手団地)』,n.d.取手市役所所蔵.
*10 厳密には、この直前の1980年10月17日の東京芸大音楽学部教授会議事録(4頁)で「8.施設,整備関係」という項目の直後に、上から走り書きのメモとして「取手 日暮里」と地名のみ記載されているが、その文脈については読み取ることはできない。
*11 山本正男。1979年12月より1985年12月まで東京芸大学長。
*12 白井實。1980年6月より1984年11月まで東京芸大事務局長。
*13 東京芸術大学での各年度の概算要求の提出は、前年度の夏ごろに行なわれている。
*14 清家清。1980年4月より1986年3月まで東京芸大美術学部長。
*15 東京芸術大学.1980年10月23日東京芸術大学評議会議事要録,n.d..,1頁.
*16 引用文中の「日暮里地区」とは、東京音楽学校時代に建設された奏楽堂の移転に関して、荒川区が日暮里地区の敷地を芸大に提供するという話を受けてのものと思われる。『上野奏楽堂物語』(東京:東京新聞出版局, 1987)82頁も参照。
*17 この「日暮里地区」の土地は、1981年6月25日の定例評議会の時点で、荒川区による総合施設が検討されていることが判明したことにより、東京芸大としての利用計画の検討は打ち切られている。
*18 解体、次いで愛知県の明治村への移築を決定した東京芸大に対し、日本建築学会や東京芸大OBの音楽家が学内での保存を要求、政界に働きかけて奏楽堂関係の予算をストップさせるなど対立した。旧奏楽堂の移転を巡る経緯については『上野奏楽堂物語』(東京:東京新聞出版局,1987)が詳しい。
*19 新奏楽堂は、結局は取手校地の開校よりも後の1998年まで完成を待つこととなった。
*20 東京芸術大学.1980年6月26日東京芸術大学評議会議事要録,n.d.
*21 例えば、1980年5月15日の定例評議会の議事要録では、奏楽堂を使用していた美術学部デザイン研究室について「移転せざるを得ないが、移転先がない」(5頁)との発言がなされている。
*22 東京芸術大学.1980年5月15日東京芸術大学評議会議事要録,n.d.
*23 東京芸術大学.1980年5月21日東京芸術大学美術学部教務委員会記録,1980年5月21日.
*24 藤本能道。1985年12月より1988年12月まで東京芸大学長。
*25 この資料は表題が『取手総合芸術研究所 陶芸個展技術研究施設計画案』となっているほか、設置設備のイメージと配置図なども含まれている。
*26 濱野政雄。1978年より1982年まで東京芸大音楽学部長。
*27 畑中良輔。1969年より1983年まで東京芸大音楽学部教授。
*28 東京芸術大学.1981年3月18日東京芸術大学評議会議事要録,n.d.,1-2頁.
*29 Ibid.,資料4.
*30 佐藤清。2000年から2020年まで取手市議会議員、うち2016年から2018年まで取手市議会議長。
*31 佐藤清氏と筆者とのインタビュー,2020年2月.
*32 国土庁に「学園計画地ライブラリー」が設置されたのは1980年1月11日であったとの記述もある(渡部晃正.”地方自治体と米国大学のパートナーシップに関する一考察”,『東北大学教育学部研究年報』第43集.1993.,79頁)が、取手市所有の公文書は候補地登録を1979年4月と記録している。
*33 佐藤清氏と筆者とのインタビュー,2020年2月.
*34 取手市議会,平成21年第4回定例会(第5号)18番,2009年12月3日.