1992年4月13日の福利厚生施設の完成とともに、取手校地の教育活動は本格的にスタートする。このときは油画専攻の学部1年生60人と大学院生約30人で創作活動が始まり*310、その後デザイン科の一部学生が上野より移転した*311。開かれた大学を目指し、7月には取手市と東京芸大の間で第1回の文化懇談会*312が行なわれ、12月には、その後毎年開催される、「創作展」の第1回が開かれた*313。後者については茨城県の製作による映像ニュース『茨城県だより』に取り上げられており、会場の様子とともに開校初期の取手校地の様子をみることができる。
1993年にはデザイン科の1年生と大学院の半数のほか、日本画、美術教育の一部の大学院生が利用を開始する*314。9月には、短期宿泊施設である「利根川荘」の利用が開始*315、1994年度の概算要求では新たに屋内運動場、共用棟、国際交流会館、芸術資料館分館に関する費用が要求され*316、1994年11月にはこのうち芸術資料館取手館が完成した*317。しかしその他施設はこの後、2020年現在まで予算化、着工されていない。
1995年1月には、表紙の色から「オレンジ本」と称される『複合実技教育を目指して-取手校地における改革実施案』が発行され、以後約20年間、美術学部の複数の学科の1年生が、複合選択実技授業と称された共通カリキュラムで取手校地を使用する方針となる。
1999年3月には取手校地周辺の最初期の構想に深く関わった内山が定年退職*318、入れ替わりで先端芸術表現科(通称、先端)が取手校地に開設される*319。東京芸大としての開学以降初となる、上野校地以外に活動の拠点を置く学科で、4年間のカリキュラムは基本的に取手校地にて設定された。2001年にはメディア教育棟の第Ⅰ期工事が完了、附属図書館の取手分室が設置される*320。2002年には同様に取手を拠点とする音楽環境創造科(通称、音環)が音楽学部に開設される。2003年には音楽学部の学生も参加するという観点から、展示としての要素が強い「創作展」の呼称が「アートパス」に変えられる。一方で、副科としての楽器のレッスンを取手では実施できず、音環では上野での授業も受講ができるようにカリキュラムが組まれていた*321。これに加え、取手校地内の施設の防音設備が不十分であったことなどにより、音環は第1期生が卒業した後の2006年度からより上野に近い千住校地に移転する。
2010年には会計検査院の実地検査で、取手校地の土地について、処分あるいは有効活用を行なうよう指摘がなされ*322、これを踏まえ「アートヴィレッジ」と称されるプレハブ造のアトリエが2012年度に設置された*323。取手校地での学部1年生の授業の設定は2015年度が最後となり、2016年度からは入れ替わりで大学院にグローバルアートプラクティス専攻が新たに設置された。*324
2021年には、開校以降では初となる、これまでの取手校地の計画とは大きく異なったマスタープランが公開予定となっている。2020年には既にその構想の一部として、開校以来の草地に新たにバスロータリーの工事が行なわれたほか、東京芸大とTAP、そして地元住民との合同プロジェクトとしてヤギ2頭の飼育がキャンパス内で開始されている。このように、取手校地ではそれまでの歴史にはない新たな取り組みがはじまっており、その姿は大きく変わろうとしている。