2ー2.東京芸大を取手に紹介した葉梨代議士

 1980年代に東京芸大が他の土地を差し置いて、取手にキャンパス用地を取得する可能性が生まれた背景には、取手市を含む茨城県第1区*35から選出されていた衆議院議員、葉梨信行*36の存在が大きい。葉梨は、地元である取手市の市長であった菊地勝志郎*37、そして1980年6月から1984年11月まで東京芸大の事務局長を務めた文部官僚の白井實と親しく、取手校地に関しては、最初の候補地視察から関わっていた。

 葉梨が東京芸大の取手への誘致に尽力したことは、既存資料における取手市関係者の証言からも確認できる。具体的には、取手市議会議長の斉藤敞一*38*39、同議員の佐藤清*40(役職はいずれも発言当時)が取手校地の実現に向けた葉梨の協力を公言している。また、1990年のいはらき*41においては菊地がインタビュー記事にてその経緯について詳しく記述している。

東京芸大の誘致話しは、地元から選出されている元自治大臣の葉梨信行先生が衆議院文教委員長を務めていた昭和56年〔1981年〕に「東京芸大で上野より3、40分圏内のところに第二キャンパスの用地をさがしています。取手市内にはどうですか・・」との電話があり、当時、ちょうど、取手に県立高校を誘致しようとして3カ所ばかり検討していた土地があったため、葉梨先生にはその場で「最適地があります」と答えました。そうしたところ、2、3日後には事務局長、続いて現学長の平山郁夫*42画伯が訪れ、候補地を視察し「最高の環境で申し分ない」と判断され、アッと言う間に誘致が決定した訳です。*43

 ただし、いはらきの記事での菊地の発言には不正確な点があることが指摘できる。まず、葉梨が衆議院文教委員長に就任したのは1982年12月の事であり*44、1981年時点での葉梨の役職は衆議院社会労働委員長であったため、これは明らかに誤りである。そして、葉梨から菊地への連絡、その直後の東京芸大からの視察が1981年に行なわれたという記述については、先述の通り、東京芸大は評議会記録から1980年時点で既に「取手」の視察がなされており、検証が必要となる。

 葉梨自身は、東京芸大の取手誘致のきっかけについて、筆者からの質問を基に、葉梨康弘衆議院議員が聞き取った回答として、このように述べている。

白井實君とは、旧制水戸高校文乙の同級生で、彼が文部省に入省してからも、親しくしており、当時白井君は藝大事務局長の職にあった。

昭和50年代の半ばで正確な日時は忘れたが、藝大による取手視察が昭和55年〔1980年〕10月ということであれば、その年かその前年くらいかと思い〔原文ママ〕。白井君から、全く別目的の席で「東京藝大の上野キャンバス〔原文ママ〕が手狭になり、第2キャンパスを探している。」という話を聞き、私が、「それなら取手に来て欲しい」と持ちかけたのが、このプロジェクトの発端だ。

その後白井君と何回もやりとりを重ね、東京藝大の主立った先生に、是非取手を視察していただきたいということになった。

菊地勝志郎市長には、視察が本決まりになる前に連絡した。視察が昭和55年〔1980年〕ということであれば、その直前で、昭和56年〔1981年〕というのは菊地さんの記憶違いかも知れない。*45

 両者の証言を、時系列順に整理する。まず、1979~1980年頃、白井から葉梨に、東京芸大が手狭となった上野に次ぐ第2キャンパスを探していることが伝わる。そこで葉梨が地元の取手を提案し、葉梨と白井の間で取手への東京芸大進出の検討が行なわれるようになる。その後、葉梨から菊地へ電話で取手市内の用地について可能性が打診される。これに対し、菊地は県立高校の誘致先としての土地が取手市内にあったことから、最適地があると回答する。その数日後に、東京芸大事務局長である白井による候補地の視察がなされる。そして、東京芸大の教職員による視察が実施、ここで関係者の間で取手という土地に東京芸大が誘致されることがほぼ決定的となった。

 これを、東京芸大の公文書に記載されている日時と照らし合わせてみる。まず、白井が東京芸大事務局長に就任したのは1980年6月11日のことである*46。そして、前述の通り、白井の就任直前の1980年5月の評議会では全く検討がなされていなかった上野以外にキャンパスを設置する構想が、10月の評議会では「他に新しい場を求め発展させていくのか等の基本構想と具体性のある計画を樹てていく必要がある」*47との白井の発言とともに、清家美術学部長に取手の視察報告がなされるなど、具体的な検討が進められている。そして、これ以降取手を前提に、第2キャンパス構想の検討が進んでいる。

 東京芸大の教職員による視察について、葉梨はこのように述べている。

取手の視察には、確か当時東京藝大の美術部の最右翼の教授であった平山郁夫先生はじめ何人かの先生も来られたと思う。それから白井君と事務方。私や菊地市長も同行した。視察先は、現在校地のある小文間と、戸頭(現在ホーマックやヨークマート〔筆者注:ヨークベニマルのことと思われる〕のあるあたり)も見ていただいた。 視察の後、懇談の機会を持ち、
・ 小文間は登り窯を作ることができる
利根川の夕景がポイント
などの意見があり、この日、実質的に、取手小文間校地が内々定という感触を得た。*48

 前述の佐藤は、取手市役所職員としてこの視察に同行していた。その様子について筆者とのインタビューにおいて、佐藤は次のように述懐する。

記憶は薄れているが、芸大からは非常勤講師も含めてバスで、市内の3カ所を見るという話で来た。確か小文間のキャンパスが決まったのは、もう夕方になっており、台風の後で小貝川が荒れていたが、その左岸の戸田井橋付近から西に候補地の方を見たとき、芸大の先生が、夕陽が大変きれいだ、ということで固まった。候補地の3カ所とは、取手の一番西の新大利根橋付近、真ん中あたりのアジア取手カントリークラブの付近、そして小文間の中谷津地区。*49

 改めてこの視察のタイミングを検証する。詳しくは後述するが、1981年6月10日の朝日新聞の記事において、既に取手市の中でも小文間地区に東京芸大が第2キャンパスを構想していることが取り上げられている。1981年に関東地方に接近した台風は、6月22日に長崎県北部に上陸した台風5号が最初であり*50、佐藤の台風に関する証言が正しいとすれば、やはりこの視察はその前年である1980年か、それ以前に行なわれていた可能性が高い。
 さて、これらの証言からは、東京芸大の関係者が、取手市内の候補地の視察を終えたタイミングで、既に取手への進出、そしてその中でも取手校地の現在地(小文間地区)でのキャンパス設置の意向が示されていたことがわかる。特に利根川の「夕景」「夕陽」がポイントであったという証言は葉梨と佐藤の間で共通している。「登り窯」が実現できるという実用的な理由も確かに挙げられているが、それに加えて景色という一見実用的ではない要素が東京芸大の関係者により評価され、取手市内でも小文間地区への設置に作用した事実、そしてそのことが視察から40年経った現在でも葉梨や佐藤の記憶に残っていることは興味深い。

 一方、取手の他の候補地について、言及している一次資料は確認できていないが、その存在は複数の人物により示唆されている。前述の佐藤は、筆者とのインタビューでは、取手以外にも神奈川県逗子市の池子弾薬庫の跡地や、千葉県柏市の陸軍飛行場(のち、アメリカ軍通信施設)の跡地が候補に上がったと述べており、取手市議会においても、池子を含め「候補地は多々あった」*51と公言している。更に横浜市の市議会においても、横浜市中区本牧への誘致活動が行なわれたが、取手との競争で当時は実現しなかったとの発言が、東京芸大の大学院映像研究科が横浜市に設置された2004年に当時の都市経営局長によりなされている*52*53。最後に、取手市小文間地区に長らく在住し、1980年から16年間、取手市議会議員を務めた饗場芳隆氏は筆者とのインタビューにおいて、新たなキャンパスは常磐線沿いで上野から1時間以内で通えるということが必須条件であったこと、最終候補として筑波か小文間のうち、より近く景色もよい小文間が選ばれたと述べている*54。東京芸大の評議会や教授会記録、菊地や葉梨の証言からは、取手の外に競合していた土地があったことはうかがえないが、現場レベルでその他の候補地がどのように検討されていたかについては、今後の検証が望まれる。

 葉梨による仲介により、東京芸大関係者による取手における視察が実現したことが、取手市への東京芸大の誘致のきっかけとなった。そして、その誘致の場で東京芸大の関係者が小文間地区の環境を評価したことから、取手の土地における東京芸大の第2キャンパス構想が始まり、以降は、設置される施設や使用計画について学内で検討が進められてゆく。

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脚注
*35 この茨城1区は、1947年の第23回衆議院議員総選挙から設置され1994年の公職選挙法改正で廃止された中選挙区制における区割りであり、2020年現在の茨城1区の区域とは異なる。
*36 葉梨信行。1967年より2003年まで衆議院議員。
*37 菊地勝志郎。1979年より1995年まで取手市長。
*38 斉藤敞一。1968年に取手町議会議員に初当選、1980年より1982年までおよび1986年より1988年までは取手市議会議長。
*39 取手市役所,“明日の取手 個性豊かなまちに”『広報とりで』,1987年1月1日.,2頁.
*40 取手市議会,平成21年第4回定例会(第5号)18番,2009年12月3日.
*41 1947年に題号を「茨城新聞」から改称、以降1991年まで使用。1991年から再び「茨城新聞」に変更。
*42 平山郁夫。1988年より1990年まで東京芸大美術学部長、1990年より1995年と2001年より2005年まで東京芸大学長。
*43 “20歳を迎えた取手市”『いはらき』(朝刊),1990年10月1日.,16頁.
*44 “自民党、衆院常任・特別委員長選出で田中派が半数近く進出”『日本経済新聞』(夕刊),1982年12月28日.,2頁.
*45 葉梨信行,東京藝術大学取手校地に関する質問について(回答)〔筆者が、衆議院議員 葉梨康弘事務所とのメールを通じ、元衆議院議員葉梨信行に対し聞き取った回答の概要〕,2020年11月.
*46 東京芸術大学事務局.『東京芸術大学学報』177号,1980年7月15日.,5頁.
*47 東京芸術大学.1980年10月23日東京芸術大学評議会議事要録,n.d.,1頁.
*48 葉梨信行,東京藝術大学取手校地に関する質問について(回答)〔筆者が、衆議院議員 葉梨康弘事務所とのメールを通じ、元衆議院議員葉梨信行に対し聞き取った回答の概要〕,2020年11月.
*49 佐藤清氏と筆者とのインタビュー,2020年10月.
*50 “気象庁|台風経路図1981年,”気象庁ホームページ,気象庁,2020年11月6日閲覧.https://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/typhoon/route_map/bstv1981.html
*51 取手市議会,平成21年第4回定例会(第5号)18番,2009年12月3日.
*52 横浜市議会,平成16年都市経営総務財政委員会 6月11日-第11号,2004年6月11日.
*53 筆者は横浜市役所に対し、この発言の裏付けとなる行政文書の開示請求をおこなったが、2021年3月時点に、文書の存在が確認できず、作成又は取得していても廃棄されているとの回答を受けた。
*54 饗場芳隆氏と筆者とのインタビュー,2019年4月.