取手校地の歴史を振り返ることはこのような先人への敬意を示すことであり、それは取手校地という場、あるいは東京芸大全体における未来を築く第一歩であると考える。これまで述べてきたような数多の事情もあり、その研究は十分になされてこなかったが、こうしてまとめることにより、単に東京芸大の歴史、例えば学生の美術作品の肥大化や、政府の大学運営に関する施策といった文脈だけではなく、より広い社会史と関連付けて、その変遷をとらえることができる。
例えば、取手校地の歴史には、日本の社会における文化芸術に関する歴史との符合がみられ、これは他の大学の郊外型キャンパスの設置の文脈と比べ稀有な事例といえよう。取手市が東京芸大の誘致を行なった1980年代初期は、地方自治体による文化産業の振興が進められるようになった時代であり、全国で文化ホールや美術館の建設が公共事業として行なわれた。取手校地に関しては茨城県が主導した県立公園や芸術家村の構想がこれに当たるが、東京芸大のキャンパスの設置自体もその役割の一旦を担ったといえよう。特に取手市にとっては、それまでもたれていた競輪の町としてのイメージを払拭し、大きなイメージアップにつながったとされる*325。また、1980年代後半には、バブル経済の後押しもあり、企業による文化芸術への支援、所謂企業メセナが活発化する。内山が構想した「映像未来都市」構想には、公共団体としての文化振興策に企業による支援が取り込まれ、大規模なものとなった。一方で、開校を迎えた1991年以降は日本経済の低迷による公共団体、企業双方の財政難により全国的にこういった施策は縮小され、ここまで見てきたように、取手校地に関するものについても例外ではなかった。また、これによりハード面ではなくソフト面への支援が推進されたことは、1999年の先端の設置と合わせた取手アートプロジェクトの形成に繋がったものと言えるだろう。
更に、1991年というタイミングで開校した取手校地は、このほかにも社会のあらゆるマクロ的視点との関連においてみることができるという点で特異である。この年はソビエト連邦の崩壊という世界史においても非常に重要な出来事が起こった年であり、度々近代と現代の転換点として語られ、多くの価値観の転換がその前後に提唱された。例えば、フランシス・フクヤマが『歴史の終わりと最後の人間』において人類史における政治体制として民主政治が最終形であると発表したのはこの時期である。また、ハーバーマスの『公共性の構造転換』は初版が1962年に発表されていたが、1990年に新たに再版され、追加された序文では、国家権力に対する市民による統制において、自律した市民社会における公共圏、例えばNPOなどの必要性を強調している*326。取手校地は国立大学である東京芸大のキャンパスとして、これまで見てきたように提案、計画、用地取得、そして建設されてゆく中で、国家権力が常に背後にあった。また、これを基に、キャンパスという性格から固定物(不動産)として設置された以上、現在でもその維持、あるいは存在自体において国家という存在を無視することはできない。一方で、その開校以降、幾多の学生の制作や研究に加え、多くの市民があらゆるかたちで取手校地で行なわれる活動と関わるようになった。特に、NPOである取手アートプロジェクトは2020年現在、取手校地内にオフィスを置いている。このような中で、取手校地の歴史には、芸術と国家、あるいは市民活動と国家の複雑な関係が見出され、そこで行なわれるあらゆる活動の再検証へと広がりをもつものといえる。
筆者が取手校地についての研究をはじめた背景には、かつて在籍した米国・カリフォルニア大学デービス校において、そのキャンパスが実は先住民(アメリカンインディアン)であるパトウィン族の集団墓の上に建てられているという事実と、それを踏まえた大学の姿勢について同大学の授業で教員、学生を交えた討論がなされ、衝撃を受けたことにある。自身が今立つ土地に、かつてどういった人間が立っていたか、その下にどのような過去が埋まっているか、そのことに対する認識を行なわずに活動することは、無自覚のうちに倫理に大きく反する行為につながる恐れがあることに気づかされた。このことは、いかなる土地においても共通して言えることではあるが、あらゆる研究や表現活動、特に社会に対する主張が盛んに提示される大学のキャンパスという存在においては特に重要であると認識される。そのため、自身が東京芸大に入学し、取手校地に通うようになると、その土地の由緒について認識が利用者の間で共有されていなかったこと、そして自身がこういった土地への認識を経ずに「制作」として表現を生みだすことには、長らく自分の中で抵抗を感じずにはいられなかった。今、多くの関係者の協力があり、その過去を垣間見ることができ、その成果をここにまとめるに至った。一方で、既に修了となり、ようやくこれらの事実を知ったうえで制作に踏み切れるようになったところで、東京芸大の修士の大学院生としてのタイムリミットがきてしまったことに、無念を感じる。ここまで自身が述べてきた「取手校地史」も、書き出しで述べたように、決して唯一の正しいものではないと考える。今回、この取手校地史が、後に続く者にとってその理解を拘束するようなものではなく、各個人にとって一層の可能性や深化が広まるものとなることを願うとともに、その検証が今後もなされることを望む。どうか読者のご批正に俟ちたい。