まず、小文間の地形について述べる。小文間は、日本列島で最大の平野である関東平野のほぼ中央、東を小貝川、南を利根川に挟まれた東西約14km、南北約4kmの範囲を市域とする茨城県取手市の東南端、両河川の交差点の台地に位置する。取手校地敷地内の短期宿泊施設の東北東の山林に設置されている二等三角点の標高は約23メートルである*55。茨城県の県南地区の地盤は約12~13万年前まで関東平野一帯に存在した古東京湾と呼ばれる内海に海底に堆積した成田層と呼ばれる地層が母体であるが、小文間の台地はこの上に火山灰が堆積したものが河川により浸食され生まれた*56。取手市内では、現在のJR取手駅周辺から西側にかけても台地が形成されているが、この台地と小文間の台地は連続していない。一方、現在の小文間の台地の東端を流れる小貝川は、1630年に行なわれた戸田井・羽根野の間を開削する工事で流路が西へ移されたもので、それより以前、この台地は更に東側、現在の龍ヶ崎市北方地区や利根町の羽根野地区から立木地区まで連続していた*57。つまり、現在の小文間を定義する境界のうち、東側を流れる小貝川は一見自然の境界に見えるものの、実は江戸時代に入ってから人工的に作られたものである。自然と人為双方の要因により、小文間は現在の形となった。
その小文間の台地の上には、先史時代から長きにわたって人々が生活していたことが複数の発掘調査の結果からわかっている。小文間地区の縄文遺跡としては、縄文前期から中期末に形成された西方貝塚と、縄文後期から晩期に形成された中妻貝塚が存在し*58、いずれの貝塚からも土器および人骨*59が出土している。このうち中妻貝塚からは1992年に100体以上の人骨が発掘され、この時代のものとしては日本中でも最大規模の集団墓と、住居、貝で作られる装飾品のための工房とされる構造も見つかったことから、縄文時代の小文間は200人以上が暮らす、この地域における中核都市であった可能性も指摘されている*60。ある時期の縄文の人々にとっても、今の小文間が住みよい土地であったことが推察できる。
歴史時代に入ってからの小文間についても、郷土史家の調査により発展を辿ることができる。前述の中妻貝塚の一部には現在、海中山福永寺が建っているが、その由来を伝える「福永寺縁起」によると、平安時代の824年に毘沙門天の金像が海中より湧出し、その際に像と暁の明星が天井に小紋がたなびくように光り輝いたことが「小紋間」のち「小文間」という地名の由来となったという説が提唱されている*61*62。小文間は長きにわたり伊勢の皇大神宮の社領の一部であったが、戦国時代に小文間城を築城した一色氏、一色氏の敗北後は小田原北条氏の領有を経て、徳川氏の統治下となった江戸初期から開拓が進行し、前述した小貝川や利根川の河道付替え事業に伴う入植者の増加、その完成後は舟運の発展や穀倉地帯開発により人口が増加した*63。また江戸中期に開創された相馬霊場では小文間の複数の寺院が札所に指定され*64、以後、第2次世界大戦戦後まで江戸のち東京一帯から訪れる巡礼者で賑わいを見せることとなる*65。特に小文間の中でも、利根川と小貝川の合流点に位置する戸田井地区にはかつて旅行者向けの船宿や大商店が立ち並び*66、今でもかろうじてその面影がうかがえる。このように、小文間はその長い歴史の中で多くの人を惹きつけて発展してきた。
小文間は取手校地の構想がなされるはるか以前から、芸術家が訪れ、作品を残した土地でもある。特に前述の戸田井地区には、芸術にまつわる伝承が確認される。同地区に位置する白山神社の本殿は、1877年の内国勧業博覧会にて彫刻の部で金賞を授与された後藤縫之助の作とされる*67。1935年の戸田井橋の開通時には、画家の小川芋銭が開通記念の扇子の絵を描いたものが配布されている*68*69。戦時中から戦後にかけては、童謡「たきび」の作曲家として知られる渡辺茂が度々訪れていたほか、平塚らいてうが自身および姉の家族とともに疎開しており、それぞれの創作活動に影響を与えている*70*71。また、らいてうの夫で洋画家であった奥村博史も、利根川と小貝川の合流地点を見下ろせる2階にアトリエを構えていた。戸田井地区の住民である中村三佐男はこの当時の様子を次のように証言している。
そのためか、取手校地の設置以前から多くの芸術家が小文間に居住している。上記の奥村についての証言を行なった中村自身も後に絵を描き始め、取手校地のメディア教育棟の西側に位置する自身のアトリエから利根川と沈む夕陽を描いた作品をはじめ、風景を描いた作品を数多く残している。中村は取手校地の開校後、専業の画家としてではなく趣味として絵を描きはじめた*76例であるが、東京芸大の小文間での建設が公表される前の1980年代以前にも、複数の作家が拠点を小文間地区に移して活動していた時期があった。彫刻家の鈴木実は1980年に流山市から小文間にアトリエを移して*77終生住み続けたほか、版画家の栗田政裕は水戸市からその鈴木の隣に移住した*78。洋画家で主体美術協会会員の福田玲子も1982年に小文間に移り住み、2020年現在も居住している*79。このように、小文間地区は取手校地の設置以前から多くの芸術家にその環境の良さが認められる土地であったといえる。 小文間に東京芸大が進出するにあたり、あるいは進出以降も、ここに述べたような歴史的背景や、郷土作家の調査が大学により公式に行なわれた記録はない。一方で、それまで小文間を訪れていた芸術家が感じた魅力と、東京芸大の教官として視察した芸術家が感じた魅力には、似通ったものがあったと考えられる。そして、その魅力が現在の取手校地やその周辺の小文間地区の環境にも見いだせるかは、今後検証が行われてゆくべきテーマであろう。