1981年以降、外部報道により取手の第2キャンパス構想が東京芸大の外にも広まりはじめ、1982年には*80翌1983年度分の概算要求として東京芸大が公式に取手進出の意図を示している*81。1981年5月の時点では、美術学部が作成した1982年度(昭和57年度)分の概算要求のドラフトで既に取手進出に向けた「不動産(土地)の購入」がリストアップされている*82が、この記載が外部に向けて提出されたことはこの時点ではうかがえない。一方、その翌6月には朝日新聞の記事*83による報道で、取手への東京芸大進出の構想が初めて公表される。この記事では、上野地区は校舎用地の為に自然が失われてきたこと、それでも増加する学生数と大型化する作品に対し手狭であること、これらが創作活動にとって支障となっていること、そしてそのために自然が残されている取手の小文間地区が検討されていること*84が挙げられている。同月の東京芸大評議会では、この新聞記事も取り上げながら概算要求について議論が行なわれ、文部省の方針に基づく大学の将来構想に向けては「第2キャンパスを求めらずを得ない」*85との結論に達し、具体的な計画を立案するために学制審議会への諮問が検討されはじめる*86。翌7月には茨城県の地元紙であるいはらきも、東京芸大の第2キャンパス用地として取手市小文間地区があげられていること、茨城県も誘致する方針であることを報道している*87。ただし、この記事において東京芸大の経理課は、東京芸大は大学創立100周年の記念事業として手狭な上野に次ぐ第2キャンパス構想について認めたものの、その候補地については具体的な検討に至っていないと回答している*88。一方で、同じ月には取手市議会においても、小文間出身の議員であった饗場が「将来、高校あるいは芸術大学の誘致という観点からも、水が必要になって」*89くるとして、地区の上水道対策についての質問を行なっている。また、11月には茨城県が「芸大予定地」の空撮を行なっている*90。こうして学内外で取手への東京芸大進出を前提とした動きが進められる中、1982年6月には、取手市小文間の現在地の用地取得を目的とした概算要求を行なうことが学内で決定する*91。これにより、東京芸大として取手進出の意図が公式に示され、前述した、白井が事務局長として提案した「新しい場を求め発展させていく」方針が、国への予算の要求という形で具現化した。このようにして、1982年には、東京芸大の取手進出の意向は、複数の報道と予算要求により学外でも知られ、その計画は本格的に動き始めるようになる。
一方、東京芸大の内部では、1982年3月に東京芸大の学制審議会が中間答申として、第2キャンパス構想についての教職員間での審議結果を学長に対し報告しており、候補地が取手市東部であること、具体的な設置施設の概要とその配置図などが示されている*92。前述の評議会における議論を踏まえ、1981年8月に「第2キャンパス構想」について学長から諮問が行なわれ実施された9回の本会議と3回の起草委員会で審議された結果がまとめられている*93。学制審議会委員には、主査である平山郁夫を筆頭とする美術学部教授5名、音楽学部教授5名、専門委員として白井事務局長、美術学部助教授1名、音楽学部助教授4名の名が挙げられている*94。ただし、第2キャンパスが必要である理由として述べられている内容には、現有の敷地が学生数の増加により手狭になっていることの他には、登り窯やガラス工房、大規模なアトリエが設置できないこと、鍛金や石彫、音楽教育研究活動により発生する騒音の制約が存在する*95ことなどが列記されており、美術学部からの要望に関するものが多い。また候補地として、現在の取手校地が位置する台地について述べられており、その理由として、上野キャンパスから1時間程度の近距離にありながら自然環境に恵まれていることが挙げられている*96。更に、本稿でこれまでに述べられていない第2キャンパスに望まれる要素として「東京芸術大学国際センター(仮称)」の設置が要求されている*97。これは、外国からの留学生や研究者の受け入れを行ない、「従来、本学にはない新たな構想とそれに伴う施設」*98により「21世紀への芸術創造及び国際関係の中での芸術教育研究の充実を図る」*99ものと説明されている。具体的には、宿舎やゼミナール室が置かれる「国際館」という施設のほか、「日本伝統芸術部門」「芸術創作部門」「舞台芸術総合研究部門」「芸術学総合研究部門」「芸術資料センター」「総合グランド」から成るとしている*100。そして、むすびとして全学での討議、またその意見が1982年度末を目途とする最終答申に向けて反映されるように協力を要請している*101。このように、具体的な第2キャンパスの必要性、用途と計画が、土地の取得が予算化される以前に既に立てられており、そこには上野の現状で実現することが難しい施設や構想が描かれている。
1983年3月には、再び学制審議会による「芸術教育研究の計画的拡充整備についてー第2キャンパス構想を中心としてー」の最終答申が、中間答申時から内容の変更や追記がなされ行なわれる。この資料では引き続き、第2キャンパスが必要である理由が述べられているが、そこには美術学部、音楽学部の双方から、現有の教育・研究体制、施設、敷地では制約や不足、困難があることが科や専攻ごとに中間答申に比べ詳細なものとなっている*102。候補地である小文間の立地条件についても記載が増えており、電力、給排水、ガスや交通の便についても整備が進んでいることが述べられている*103。また、中間答申に引き続き「上野キャンパスで行うことが困難な教育、研究に加えて、従来の専門分野を超えた新しい芸術領域の教育と研究を行う」*104としており、視覚系分野の制作のために使われる第1スタジオと音楽系の第2スタジオという施設が検討されている*105。一方、中間答申でこれらの要素を包括していた「東京芸術大学国際センター」についての言及はなくなっている。留学生や外国人研究者の宿舎として「芸術国際交流会館」の記載はあるものの、アトリエ、工房、ホールなどといった設備は施設として単独での記載がなされ*106、センターとしての構想はみられなくなった。ソフト面での活用案として、入学試験を第2キャンパスの屋内外で行うこと*107や、1年のうちにそれぞれの学科、学年の学生が第2キャンパスをどの時点で、どのように使うかの計画案*108が示されている。更に、望まれる施設として、附属図書館と芸術資料館の設置、学生寮の移転、そして御茶ノ水に位置する音楽学部附属音楽高等学校(以下「芸高」)について移転を「大局的に検討」*109すべきことなど事項が追記されている*110。最終答申は、基本的には中間答申の内容を踏襲し、それを学内の審議を踏まえ一層発展させたものとみられるが、一方で追記された「芸高の移転の可能性」の記述の背景には、これらの資料では後から記述が削除された*111取手校地取得の財源に関連する複雑な事情があった。