2ー5.取手の財源となった芸高の土地

 東京芸大の取手における用地取得は、1984年初頭に国の予算に計上されるかたちで決定する。しかし1980年代以降、財政改善を目的に国立大学には要求する予算に対して自前で財源を用意することが求められるようになっていた。東京芸大では、取手の用地取得の財源として、芸高が置かれていた神田駿河台の「お茶の水校地」の土地が挙げられることとなった。そして、この土地は最終的に売却され、芸高は上野校地に移転することとなった。

 東京芸大が取手の土地取得のために概算要求を行なうことを決定したのは、既に述べた通り1982年6月のことであった*112が、この要求が国に公式に認められたのは1984年1月だった*113。1982年に作成された翌1983年度の概算要求書には、取手での不動産購入費(19.64ha)および立木補償金が営繕関係費として記載されている*114が、この時点では予算は認められなかった。翌1984年度の概算要求書では、購入予定の面積が減少した(18.78ha)ほか土地の単価が変動し、これに伴う合計費用の変更、また購入後の計画が追記がなされた*115。具体的な施設の計画配置図が添付され、これが後に取手校地となる敷地の施設配置計画として残されているものでは最初のものである。この地図では、第1,2スタジオ、厚生施設、各種工房、大中小のアトリエ、国際交流会館、寄宿舎を含む附属音楽高校の施設、また球技コート、運動場やプール、そして池が敷地全体に点在している。1983年8月にはこの要求書を踏まえ、土地の取得が文部省で承認され、1984年度、1985年度の2年度で買収が行なわれること、大学として交渉を始めてよいとの話が出た*116ことにより、取手の土地取得の内定が出された。このことを記録した評議会の議事録では「芸大の芸術教育の新しい見通しがたつということで同慶にたえないと報告及び関係者に対する謝意表明があった」*117とされ、このことが好感をもって受け止められたことが分かる。そして1984年1月25日の1984年度予算の復活折衝で用地購入費がついたことが報道され*118、東京芸大による取手における土地の取得が広く知れ渡ることとなる。このことについても、学長の山本は評議会の場においてこのように述べて、謝意を示している。

本学の悲願であった第2キャンパスの取得が短い期間でこヽまで達成できたのは、両学部教官、事務局、学部事務部のなみなみならぬ協力と努力の結晶である。心からお礼申し上げる。*119

 5日後の1月30日には山本が学長として茨城県庁を訪ね、同県知事の竹内藤男*120との会見で県としての協力を要請するとともに、キャンパスの構想を説明した*121。また、これに関連し「音楽教育の一貫性と整備充実を図る立場から、同大音楽学部の附属高校(生徒数百二十人)についても取手市に移転する計画があること」*122も報道されている。こうして1984年、東京芸大が取手に進出する構想は、少なくとも用地取得の部分では既成事実となった。

 こうして学外に向けては順風満帆にみえた東京芸大の取手への進出であったが、その検討が始まった1980年以降、実現のために必要な予算についての国の方針は変化していた。前述の通り、1982年に東京芸大は取手に関する費用を概算要求書を通じ国に要求し、これが認められたのは1984年1月のことであった。東京芸大は、その要求において「すでに茨城県及び取手市から全面的に誘致の表明を受けており、本学としての問題はおこり得ない」*123との記載が両年度ともなされており、文部省そして国に対し土地の取得はスムーズに行なわれると主張していた。一方、1982年7月から1984年7月まで文部省大臣官房会計課長として国立大学の予算を担当していた國分正明*124は、当時の状況を筆者とのインタビューにおいて次のように述べている。

そのころから国の財政事情が悪化してきて、単に予算を付けるだけでなく、大学が自前で財産を出しなさいとなって、財源だって稼げるわけじゃないから、不要不急の土地を処分しなさい、基本的にはそれぞれの大学で努力して作りなさい、と言うことが始まった時期だった。取手の土地を買いたい、では財源を出しなさい、と。*125

 國分が言及しているように、日本政府は1980年代に入ってから財政悪化を理由に政策として支出抑制を図るようになり、これは国立大学である東京芸大の計画にも大きな影響を及ぼすことになる。1981年度の国の予算は「財政再建元年予算」と称され*126、続く1982年度予算の概算要求枠は原則として伸び率ゼロを意味する「ゼロ・シーリング」、1983年度予算以降はマイナスの伸び率を意味する「マイナス・シーリング」が設定された*127。これにより、それまで国立大学は文部省を通じ国からの予算が下りるかたちで新たな施設やキャンパスを整備していたのが、支出の抑制のために自前で財源を捻出することが求められるようになる。そして、その財源となるのは、基本的には国有財産として文部省が所有している、それぞれの大学の土地であった。このようにして、東京芸大も取手の用地取得の引き換えとして、売却できる土地を提示することが求められた。

 こうして取手の用地取得のためにリストアップされた財源の一つが、芸高の校舎が置かれ授業が行なわれていた、千代田区神田駿河台の通称「お茶の水校地」*128の土地であった。そしてその芸高の移転先が計画上必要となったことが、1983年3月の「芸術教育研究の計画的拡充整備についてー第2キャンパス構想を中心としてー」の最終答申および茨城県知事に対する説明における、取手への芸高移転構想につながっている。この経緯については、1987年6月に開催された、芸高のPTA会である響和会の臨時総会で、当時の芸高の校長であった田村宏*129が行なった説明の要旨に記述がある。

問題はたしか、昭和55年〔1980年〕、白井前事務局長の着任後間もなく、芸大の上野キャンパスが手狭なことから「取手」に土地を、という話から始まった。この時点では附属高校は全く関係がなかったのである。それまでには、土地取得のための「見せ金」としての財源提供は、他大学ではいくつか例があったらしい。白井前局長は、「取手」取得にも当初はその手を使うつもりであったらしいが、折悪しく、中曽根首相の「民間活力導入」により、お茶の水校地が遊休国有地の1つにリスト・アップされ、この「見せ金作戦」が見事失敗してしまったのである。
 そのため、その時点で附属高校はこのお茶の水校地を追い出されることになってしまった。〔中略〕
 その後、学長、局長、学部長、校長が現スタッフになり、現服部学部長*130が中心となり、附属高校の移転問題を善処するために鋭意努力している最中である。それによって現段階では、藤本学長の提案によって移転先が取手から上野、現体育館地に変更され、現在、そこにどのような状態で附属高校を移転させるか、その技術的な方法について、芸大施設課と附属高校間で検討を重ねている。*131

 田村の説明の通り、取手への進出が計画された当初は、芸高の土地が意図に反し売却される可能性は、少なくとも事務局長、学長のレベルでは、認知されていない。1982年4月の評議会では、白井は「〔第2キャンパスの取得に向けては〕財源なしでは、文部省、大蔵省を説得することはむづかしい」*132としている一方、これに対し当時の学長であった山本は芸高を「犠牲にしてこの計画を進めるわけではなく、よりよい方向で拡充整備を図り第2キャンパスと上手くかみあうよう考えていきたい」*133と発言している。ところが、田村の言及している「民間活力導入」は、その後の1982年11月に第71代内閣総理大臣に就任した中曽根康弘のもと、1983年7月に臨時行政改革推進審議会(「行革審」)の発足で「民間活力の活用」が取り上げられることから始まる*134。そして、東京芸大の取手での用地取得費が認められ、後述する通り用地買収が既に始まっていた1984年10月16日、民間に開放できる国有地の候補リストが公表され、その中に芸高の土地が記載される*135。このことは東京芸大の関係者には知らされておらず、直後の10月18日に開催された評議会では両学部教官が「意見交換」*136を行ない、学長と白井が説明に追われた様子が議事要録に残されている*137。一方、1985年4月には衆議院大蔵委員会の場において、同6月には衆議院建設委員会の場においてそれぞれ芸高の土地が取り上げられ、いずれの場でも1990年度以降に処分が行なわれるとの発言がなされている*138*139。その後者において処分方法は未定とされていた*140が、1985年10月には新しい日仏会館の建設が計画されている*141との報道、1986年1月にはその建設が決定した*142という報道がなされる*143。田村の説明にあるように芸高の移転先については取手ではなく上野の体育館に変更されたが、いずれにせよ、芸高は、設立された1954年から30年以上、生徒や教職員が慣れ親しんできたお茶の水校地から移転することを余儀なくされる。

 こうして生じた「芸高問題」は東京芸大の内部では1992年頃まで議論がなされ*144、最終的には1997年、芸高の敷地が売却されるかたちで決着する。また、芸高は1995年に、2020年時点での現在地である上野校地に移転した。この移転に関する詳細な議論は、公文書には残されておらず本稿の目的からも外れるためここでは記載を省く。一方で、跡地となったお茶の水校地は、戦前から所有者として登記されていた文部省から1997年3月、公立学校共済組合が60億3,000万円で取得し*145、2020年現在、公立学校共済組合本部事務所ビルが建っている。この公立学校共済組合の理事長を1992年7月から1996年1月までつとめていたのは、かつて東京芸大の取手取得に会計課長として携わっていた國分であった。この経緯についても國分は証言を残しているが、その検証については稿を改めるのが適切と考え、本稿では付属資料として添付した。ここでは、取手校地取得のために、結果として東京芸大はお茶の水の土地を失うに至り、そのために芸高が移転を強いられたという事実のみを記載するとともに、取手校地の歴史の中で見落としてはならない点であることを指摘するにとどめる。

2ー6.『二転三転する取手利用計画』にすすむ

2ー4.『動きはじめた取手第二校地構想』にもどる

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脚注
*112 145
*112 東京芸術大学事務局.『東京芸術大学学報』294号,1991年12月16日.,別冊2頁.
*113 “東京芸大 取手市建設決まる 用地費五億円が復活”『いはらき』(朝刊),1984年1月26日.,1頁.
*114 東京芸術大学.『昭和58年度 施設整備及営繕関係概算要求書』,n.d.,2-3頁.
*115 Ibid.
*116 東京芸術大学.1983年9月22日東京芸術大学評議会議事要録,n.d.,5頁.
*117 Ibid.
*118 “東京芸大 取手市建設決まる 用地費五億円が復活”『いはらき』(朝刊),1984年1月26日.,1頁.
*119 東京芸術大学.1984年2月23日東京芸術大学評議会議事要録,n.d.,7頁.
*120 竹内藤男。1975年4月より1993年8月まで茨城県知事。
*121 “‘取手の芸大’は自然公園型 国際芸術交流の核 山本学長知事を訪ねて構想”『いはらき』(朝刊),1984年1月31日.,1頁.
*122 Ibid.
*123 東京芸術大学.『昭和58年度 施設整備及営繕関係概算要求書』,n.d.,5頁.
*124 國分正明。1982年7月より1984年7月まで文部省大臣官房会計課長、その後1990年6月から1992年7月まで文部事務次官。また、1992年7月から1996年1月まで公立学校共済組合理事長。
*125 國分正明氏と筆者とのインタビュー,2020年11月.
*126 国会会議録,第94回国会衆議院本会議第2号,1981年1月26日.
*127 崎山建樹, ”財政再建に向けた取組の変遷-OECD諸国の取組事例とともに-”『立法と調査』(No.341),2013年6月,85頁.
*128 東京芸術大学広報委員会.“芸高創立50周年”『藝大通信』(No.10),2005年3月10日.,8頁.
*129 田村宏。1985年4月より1991年3月まで東京芸大音楽学部附属音楽高等学校長。
*130 服部幸三。1986年4月より1990年3月まで東京芸大音楽学部長。
*131 東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校『芸高創立50周年記念誌 芸高の半世紀』(東京:東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校創立50周年記念事業実行委員会記念誌委員会)2005年6月,56頁.
*132 東京芸術大学.1982年4月22日東京芸術大学評議会議事要録,n.d.,7頁.
*133 Ibid.,7-8頁.
*134 小峰隆夫『日本経済の記録 第2次石油危機への対応からバブル崩壊まで バブル デフレ期の日本経済と経済政策』(大分:佐伯印刷,2011),109-110頁.
*135 “国有地開放 中西特命相、閣議で候補地リスト報告”『朝日新聞』(夕刊),1981年10月16日.,10頁.
*136 東京芸術大学.1984年10月18日東京芸術大学評議会議事要録,n.d.,5-6頁.
*137 Ibid.,2-7頁.
*138 国会会議録,第102回国会衆議院大蔵委員会第19号,1985年4月16日.
*139 国会会議録,第102回国会衆議院建設委員会第11号,1985年6月12日.
*140 Ibid.
*141 “日仏会館、設計・施工を仏側に 市場開放絡め有力”『朝日新聞』(夕刊),1985年10月2日.,1頁.
*142 “日仏文化会館、東京・神田の芸大付属高の敷地に建設――62年度にも着工”『日本経済新聞』(朝刊),1986年1月1日.,2頁.
*143 ただし、この直後の1986年1月9日の東京芸大音楽学部教授会の場で、渡辺高之助音楽学部長は、今のところこの記事に書かれているような事実はないとの旨の発言をしていると記録されている。
*144 東京芸術大学事務局.『東京芸術大学学報』295号,1992年1月16日.,1頁.
*145 『千代田区神田駿河台2丁目9-5』不動産登記(土地全部事項証明書).登記情報提供サービスより2020年4月21日取得.