2ー6.二転三転する取手利用計画

 東京芸大の取手での土地の取得が進行し、いざ第2キャンパスの実現が現実味を帯びると、前述の芸高の移転問題に加え、どの学科が取手でどのように活動するかなどの議論も加わり、取手校地の開校は当初計画されていた東京芸大100周年の1987年から大きく遅れることとなった。

 取手での用地取得は、決定した1984年1月以降、一部の計画が変更されながらも進められてゆく。1984年、第66回全国高等学校野球選手権大会で、茨城県立取手第二高等学校が茨城県勢として初の優勝を果たした*146日である8月21日*147には、東京芸大学長、茨城県知事、取手市長と、国からの委託で用地取得を代行する取手市土地開発公社の副理事長が立ち合い、大学と市の間での「用地取得に関する覚え書」締結、交換がなされ*148、具体的な買収価格の決定を経て買収が進められることとなった*149。10月5日には地元の小文間公民館で地権者37名に対し説明会が実施され、同月中には既に取手市土地開発公社が土地買収に着手している*150。1985年7月には既に敷地の7割が取得されており12月には完了予定であること、そして3年後の1988年4月には入居可能となる予定であることが報告された*151。1986年2月にはこの用地の買収が3月中に終わり、1986年度からキャンパスの造成工事、1988年度には教育研究活動が始まる予定であるとの報道がなされている*162。ただし、東京芸大が文部省より取得が認められた面積の合計は16.85ha*153*154と、前述した1984年度の概算要求における総面積(18.78ha)から更に減少した上に、そのうちの6.73haは1985年度中の購入の目途がつかず、1986年度に持ち越された*155。一部の地権者とは最後まで折り合いがつかず、用地取得は計16.85haのうち16.46haが取得された時点で完結する*156*157

 用地取得が進み、続いては敷地の造成やインフラ、建物の整備の計画が具体化したことは、1985年度以降の各年度の概算要求より伺える。1985年度の概算要求では土地取得の費用に加え、1986年度以降行われる敷地造成、基幹整備、環境整備、運動場整備と建物整備の計画が添付された*158。また、前年度の施設計画図とは全く異なる利用計画図が提示された。具体的には、建物の数や敷地に占める面積が減り、漆樹林や「芸術の森」、屋外実験場、屋外彫刻場といった屋外の設備が増えている。1986年度の概算要求では、このうち環境整備の工事費がリストアップされるとともに、更新された利用計画図が添付されている*159。この間の1985年12月には、両学部の教官から成る第2校地整備計画小委員会より、施設の総工費は60億円であることが報告されている*160。そして1987年度の概算要求においては、基幹環境整備の説明資料として、建物や道の他に雨水と汚水の幹線のルートや幹線道路、よう壁の詳細図、また伐開伐根や切土造成の区画図などが添付された*161。ただし、この時点での道路や建物の配置や形状は、県道からの進入路の入口や道路橋の位置を除き、現状の取手校地とは異なっている。

 なお、この時期には学長、両学部長、事務局長の交代が起こっている。まず、1984年11月に事務局長であった白井が東京工業大学の事務局長に転出し、後任に河野*162が就任する。1985年12月には山本の学長としての6年間の任期が終わり、学長選挙の結果、後任に美術学部教授の藤本が就任した。そして1986年3月末をもって美術学部長の清家、音楽学部長の渡辺*163が退任し、それぞれ後任に中根*164、服部*165が就任する。これにより、1986年度のはじめには、取手への進出が最初に提案された1980年、あるいはその用地取得が認められた1984年1月の時点と比べ、これらの役職のトップは完全に入れ替わったこととなる。

 このこともあってか、取手校地のソフト面での利用計画は、検討が進むもその方針は定まらず、特に美術学部がこの時期に提示した計画は度々変更がなされた。山本は学長退任直前の1985年12月に第2キャンパスの整備計画について諮問を行ない、学制審議会はこれを基に1986年1月、前述の1983年3月に行なった「芸術教育研究の計画的拡充整備についてー第2キャンパス構想を中心としてー」の最終答申を再度見直し、改訂増補の上で、新たに学長に就任した藤本に対し答申を行う*166。この答申では、美術学部の学部4年の1/3(70人)、修士の2/3(150人)、博士及び教官(20人)、そして大学院の留学生、研究生が第2キャンパスの同時利用計画人数とされた*167。ところが、1986年10月9日付に美術学部教授会が了承した拡大運営委員会の「上野・取手校地利用計画について」*168においては、大学院の在籍学生の1/3(100人程度)に加え、学部1年生(230人程度)が基礎課程の一部として共通工房を利用し造形基礎教育を集中的に行うことに変更される*169。11月20日および12月4日教務委員会では、この学部1年生の取手での教育の可否をカリキュラム面で検討しており*1*171、12月11日の美術学部教授会ではこの方針を前提に「第2校地に籍を置く教官等人員調」の表が案としてまとめられた*172。ところがその直後の12月18日の評議会では「学長から取手校地の利用計画としては、美術学部の大学院及び学部の高学年で考えるのが最善と思われる」*173との発言がなされ、1987年2月にはまた新たな構想が作られる。ここではデザイン科を4学年全て(1学年150人、合計450名)改組し、美術・音楽に次ぐ第3学部として、造形総合学部に発展し取手へ全面移転するという内容である*174*175。この一見唐突な構想の背景には、当時東京芸大のデザイン科が競争率50倍という倍率となり、同時にデザインの分野の発展によりデザイン科のみで学部が成り立つとされたこと、またデザインの新分野に上野では対応が困難になっていったことが挙げられている*176。この案は美術学部教授会*177、次いで評議会で審議がなされるも結論が出ず*178、4月に再審議が行われた*179。そしてこの学部新設という壮大な構想を踏まえ、第2校地計画に伴う専門委員会が新たに設置される*180。このように、第2キャンパスに関してはあらゆる立場の意見が交わされ、ついには新学部の構想がなされるなど、土地の利用の検討を超え、大学全体の在り方を大きく変えようとする流れが生まれている。

 これと並行して学外では茨城県、そして取手市が早くも東京芸大の開校を核とした計画を立てはじめていた。茨城県知事の竹内は1987年2月に県議会に対し「キャンパス周辺を芸術の香り高い都市緑地として整備していく」*181ことを提案している。取手市長の菊地も1987年の年初に、県立公園や市民ゴルフ場や自然公園の設置、また取手駅から小文間地区へ向かう道路の拡幅と、これに合わせて彫刻などが配置されたポケットパークの計画がなされていることを、取手市役所が発行する『広報とりで』における、葉梨、取手市議会議長の斉藤、そして学長の藤本との新年対談記事*182で発表している。これらの計画の詳細については後述するが、もう一つこの記事で注目されるべき点は、東京芸大の取手における開校の時期を、1988年の春とする表現である。この後の1987年の5月にも、菊地は「来春開校の東京芸大」*183と表現している。この時点では、学外に向けては翌年には利用が開始される計画になっていることがうかがえる。

 一方、藤本は、取手のキャンパス構想を重大な問題とらえ、検討は慎重に行うことの重要性を繰り返し述べている。菊地は先述の対談で藤本に対し「63年〔1988年〕の芸大開校はだいじょうぶですね」*184と念を押すように尋ねているが、藤本はこれに対し「だいじょうぶです」*185と答えた上で「芸大の建設計画には、時間をかけてじっくりと計画を練り、あとに悔いを残さないようにしたい」*186との意見を述べている。また、学報での学長としての1988年の年頭挨拶でも、このように述べている。

100周年の記念事業も、我が芸大にとっては重要な事業であることは当然のことですが、取手第2校地の計画は、今後の芸大の発展に取って、さらにいっそう重大な問題だと考えられます。
 もし、ここで今日、明日のことにこだわり恣意をもって計画を立てれば、芸大将来100年の計を失することにもなりかねません。
 全員恣意を捨て、来たるべき未来に目を向けて、芸大発展のため、大きな視野をもって計画を立てられんことを心から希望します。
 100周年の年に100年の計を立てる、今年こそ最も重要な年になることでしょう。
 慎重に、さりとて恐れず、堂々と乗り切って行きたいものだと思います。*187

 この後、藤本のリーダーシップのもと進められた計画は実際に実行に移されたものが多く、第2キャンパス構想が大きな構想から取手校地という現実的な空間へと転換してゆくのは彼のもとにおいてである。1988年度の歳出概算要求書は、要求事項や順位が藤本に一任された*188が、ここで提示された計画は現在の取手校地の姿に通じるものとなっている。建物の配置図、またこの年度の要求事業として基幹・環境整備に加えて挙げられた共通工房棟*189*190、福利厚生施設、短期学生宿舎、美術学部の基礎教育棟といった施設*191は、現在の取手校地における配置とほぼ同一のものである。また、これまで配置図に記載されていた芸高の校舎や関連施設に関する記述は一切なくなっている。1987年9月の美術学部教授会では、附属高校の上野移転の大筋が決まり、文部省もこれを了解したことで「いよいよ第2校地の利用計画が具体化する」*192という前向きな発言が美術学部長よりなされている。1988年3月には「取手第2校地整備計画の概要」が評議会で承認され*193、7月にはこの整備計画が一般に向けて公表される*194。これを受けて7月15日には東京芸大の関係者が取手市を訪問、市長や関係者らへの説明を行なった*195*196ほか、はじめてとなる学生への公式な説明も行われることとなった*197。この整備計画に掲載されたキャンパスの鳥瞰図の絵には、道路の配置はほぼ2020年現在の取手校地と同様に描かれており、建物についても、実際には実現しなかった体育館や形状が少々異なるものも見られる一方で、実際に建設されたものと立地は同様である。また、7月1日付けで「取手校地開設準備室」が設置され、今まで第2キャンパスなどと呼ばれてきた地区が「取手校地」に呼称が統一されることが決まる*198。取手校地開設準備室は9月には取手校地の開設に関する課題を報告している*199。そして、同月には道路や上下水道の基幹工事の業者の入札が始まっている*200。このように、藤本が「だいじょうぶです」としていた1988年の開校は結局成らなかったものの、その年末には取手校地の現実的な利用に向けた基盤作りが、文字通り始まっていた。

 ただし、このための学内の調整で生じた学長をはじめとする関係者の負担は非常に大きいものであったに違いない。藤本の1989年年頭の学長としての年頭挨拶は、昭和天皇の重体という当時の社会背景を加味したうえでも、その心労を察するに余りある内容である。

年が新たになったからと言って、我が校が、ここ数年来背負いこんで来た困難な問題に、新しい解決の光が急にさし込んで来るとは考えられない。
 ただ、地道に、一つ一つの糸口をたどりながら、慎重に努力を重ねて、将来への誤りのない橋渡しをしていくよりしかたがない。
 この事は、今、全学の皆さんは、よくおわかりの事と思う。
 問題は、誰かが解決してくれるのではなくて、全員がどうしたらよりよき結果が得られるかと相談し、話し合う気持ちを持つことより他に方法は考えられない。
 自己の守備の範囲を踏み越えて、全学の問題に目を向けて欲しい。
 こうした気運が学内に強く、今、起こらなければ、我が校の将来は真に不安なものとなるであろう。*201

 この藤本の言葉の通り、取手校地に関する課題は一つ一つ対応するほかなく、このようにして進められたもののうち、主要なものを記載する。1989年度の概算要求書には参考資料として共通工房の計画概要が添付され、金工、木工、塗装、石材の4工房から成ることが示されている*202。1989年2月には共通工房の模型が提出されたほか、既に道路舗装、橋等の工事が進行しているとの報告がなされている*203。この後には1990年度の概算要求に専門教育棟が要求事業として、部屋ごとの使用計画を含めた詳しい設計図とともに提出されている*204。1989年9月には、キャンパスへのアクセスを考慮し、学生寮や外国人学生の寮を取手校地内に設置することも構想され*205、この検討は開校以降も進められてゆく*206。10月には科学研究費予算の配布があったことにより登り窯の設置が施設部会・施設整備委員会で了承される*207。1990年4月には電気・水道が3か月後の9月から使用開始になるとの報告がなされ*208、また開設式典に向けた検討がなされた*209。1990年6月には美術学部の専門教育棟の安全祈願祭が行なわれた*210。それに先立つ1989年12月に藤本は4年の任期を終え、平山に学長の座を譲り渡すが、藤本が主張した、地道ながら着実な努力により、現在の取手校地の原型がここで形成されたことがわかる。

 一方、並行して前述した「第3学部」構想についても検討が進められ、学制審議会よりその報告がなされている。1990年7月に「取手校地に係る将来構想について」としての中間答申*211と、1991年7月に「取手校地に係る将来構想(特に第3学部の設置)等について」として審議の経過報告*212が行なわれたもので、これらは取手校地の開校以前のものとしては最後にまとめられた大規模な報告書となる。以前に言及がなされた第3学部を「総合芸術学部」と称し、その構想が詳細に語られている*213。中間答申のまえがきにもある通り、この構想には「既成の芸術観を越えた観点から予感と想像を逞しくして議論」*214を行なった結果が多く記載されている。具体的には、実在造形、視覚造形、造形意匠、電子芸術、舞台芸術、日本東洋芸能、総合芸術研究の7系と、保存修復センター、版研究センター、世界音楽研究センターから成る新学部を、「単に上野校地の補充的存在」*215ではない観点から取手校地で発足させる*216という大胆な構想である。当時の東京芸大の関係者の取手校地に対する期待がうかがえるが、一方で取手校地に関連した野心的な構想は学外でも検討されていた。

2ー7.『バブル経済に翻弄された取手開校』にすすむ

2ー5.『取手の財源となった芸高の土地』にもどる

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脚注
*146 この年の「取手二高」の優勝は、2020年4月現在でも取手市ウェブサイトの『わがまち取手市のあゆみ』に掲載されているほか、当時野球部監督を務めた木内幸男が取手市で3人目の名誉市民として顕彰されるなど、取手市史において極めて重要な出来事である。
*147 この事実は1991年10月の取手校地の開設式典でも、実行委員長の稲次敏郎(当時東京芸大教授)が挨拶の中でふれている。
*148 東京芸術大学事務局.『東京芸術大学学報』294号,1991年12月16日.,別冊2頁.
*149 東京芸術大学.1984年9月20日東京芸術大学評議会議事要録,n.d.,4頁.
*150 取手市役所,“東京芸術大学取手第二キャンパス 用地(16.85ha)の買収に着手”『広報とりで』,1984年10月15日.,2頁.
*151 東京芸術大学音楽学部.1985年7月4日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,12頁.
*152 “61年度から建設、取手市の東京芸大第二キャンパス”『日本経済新聞』(北関東版朝刊),1986年2月7日.,地方経済4面.
*153 取手市役所,“東京芸術大学取手第二キャンパス 用地(16.85ha)の買収に着手”『広報とりで』,1984年10月15日.,2頁.
*154 東京芸術大学.『昭和60年度 施設整備及営繕関係概算要求書』,n.d.,2-3頁.
*155 東京芸術大学.『昭和61年度 施設整備及営繕関係概算要求書』,n.d.,5頁.
*156 東京芸術大学.”概算要求事業別説明書(様式B-1)”『昭和63年度 施設整備及営繕関係概算要求書』付属資料,1-1頁.
*157 開校以降、取手校地の総面積は県道の拡幅工事に伴う土地の売却などに伴い減少し、2020年5月現在、164,095㎡(約16.41ha)となっている(東京芸術大学.『東京藝術大学 大学概要 2020』,2020年10月.,22頁)。
*158 東京芸術大学.『昭和60年度 施設整備及営繕関係概算要求書』,n.d.,8頁.
*159 東京芸術大学.『昭和61年度 施設整備及営繕関係概算要求書』,n.d.
*160 東京芸術大学音楽学部.1985年12月12日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,11頁.
*161 東京芸術大学.『昭和62年度 施設整備及営繕関係概算要求書』,n.d.
*162 河野石根。1984年11月より1988年1月まで東京芸大事務局長。
*163 渡辺高之助。1982年4月より1986年3月まで東京芸大音楽学部長。
*164 中根寛。1986年4月より1988年3月まで東京芸大美術学部長。
*165 服部幸三。1986年4月より1990年3月まで東京芸大音楽学部長。
*166 東京芸術大学美術学部.『複合実技教育を目指して-取手校地における改革実施案-』,1995年1月12日.,2頁.
*167 Ibid.
*168 Ibid.
*169 『取手第2校地の利用について』(1986年10月9日東京芸術大学音楽学部教授会記録より)1986年10月9日.
*170 東京芸術大学美術学部.1986年11月13日東京芸術大学美術学部教授会記録,n.d.,3頁.
*171 東京芸術大学美術学部.1986年12月11日東京芸術大学美術学部教授会記録,n.d.,1-2頁.
*172 Ibid.
*173 東京芸術大学.1986年12月18日東京芸術大学評議会議事要録,n.d.,3頁.
*174 『[取手第2校地計画]美術学部・将来構想組織図(上野-取手)』(1987年3月19日東京芸術大学音楽学部教授会記録より)1987年2月26日.
*175 東京芸術大学美術学部.『複合実技教育を目指して-取手校地における改革実施案-』,1995年1月12日.,3頁.
*176 “つくば美術館開館記念対談 芸術が都市をひらく”『いはらき』(朝刊),1990年6月8日.,11頁.
*177 東京芸術大学美術学部.1987年3月19日東京芸術大学美術学部教授会記録,n.d.,1頁.
*178 東京芸術大学.1987年3月26日東京芸術大学評議会議事要録,n.d.
*179 東京芸術大学.1987年4月1日東京芸術大学臨時評議会議事要録,n.d.
*180 東京芸術大学.1987年4月16日東京芸術大学臨時評議会議事要録,n.d.
*181 茨城県議会.『県議会時報』(No.105),1987年6月20日.,9頁.
*182 取手市役所,“明日の取手 個性豊かなまちに”『広報とりで』,1987年1月1日.,2-3頁.
*183 “新首長・私の指針”『いはらき』(朝刊),1987年5月1日.,1頁.
*184 取手市役所,“明日の取手 個性豊かなまちに”『広報とりで』,1987年1月1日.,3頁.
*185 Ibid.
*186 Ibid.
*187 東京芸術大学事務局.『東京芸術大学学報』259号,1988年1月14日.,1頁.
*188 東京芸術大学.1987年6月29日東京芸術大学臨時評議会議事要録,n.d.
*189 東京芸術大学.『昭和63年度 歳出概算要求書(国立学校)』,n.d.,11頁.
*190 東京芸術大学.『昭和63年度 歳出概算要求書 説明資料(国立学校)』,6-9頁.
*191 東京芸術大学.『昭和63年度 施設整備及営繕関係 概算要求書』,n.d.,1-2頁および添付地図.
*192 東京芸術大学美術学部.1987年9月10日東京芸術大学美術学部教授会記録,n.d.,1頁.
*193 東京芸術大学.1988年3月24日東京芸術大学評議会議事要録,1988年3月29日.
*194 東京芸術大学音楽学部.1988年9月8日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,57-58頁.
*195 Ibid.
*196 この時に配布された冊子『東京芸術大学取手校地整備計画-新しい芸術大学をめざして-』は、2020年現在、取手市立図書館にて閲覧が出来る。
*197 東京芸術大学.1988年7月14日東京芸術大学評議会議事要録,1988年7月15日.
*198 Ibid.
*199 取手校地開設準備室.『取手校地開設に関する諸問題について』(1988年9月22日東京芸術大学評議会議事要録より),1988年9月19日.
*200 東京芸術大学音楽学部.1988年10月7日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,55頁.
*201 東京芸術大学事務局.『東京芸術大学学報』268号,1989年1月14日.,1頁.
*202 東京芸術大学.『東京芸術大学取手第2校地 共通工房 計画概要』(『昭和64年度 施設整備及営繕関係 概算要求書』より),1988年6月.
*203 東京芸術大学音楽学部.1989年2月28日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,33頁.
*204 東京芸術大学.『平成2年度 国立学校施設整備費概算要求書』,1ー4-1ー10頁.
*205 東京芸術大学音楽学部.1989年9月14日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,46-47頁.
*206 国際交流会館は1994年9月に建設地が松戸市新松戸に移され(東京芸術大学音楽学部.1994年9月8日音楽学部教授会記録,n.d.,7頁)、1996年に落成している。
*207 東京芸術大学音楽学部.1989年11月9日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,38頁.
*208 東京芸術大学音楽学部.1990年4月12日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.
*209 Ibid.
*210 東京芸術大学.1990年6月21日東京芸術大学臨時評議会議事要録,n.d.
*211 東京芸術大学学制審議会.『取手校地に係る将来構想について(中間答申)』(1990年9月27日東京芸術大学評議会議事要録より),1990年7月12日.
*212 東京芸術大学学制審議会.『取手校地に係る将来構想(特に第3学部の設置)等について』(1991年9月19日東京芸術大学評議会議事要録より),1991年7月8日.
*213 Ibid.,4頁.
*214 Ibid.,1頁.
*215 Ibid.,3頁.
*216 Ibid.