2ー7.バブル経済に翻弄された取手開校

 取手校地が開校する直前の1990年前後の日本の景気の盛り上がりは、キャンパス周辺に茨城県主導による自然公園や芸術家村、東京芸大の教授が構想した「映画村」など、大規模な開発計画を新たに生み出した。しかし、用地取得の難航、そしてバブル崩壊によりこれらはいずれも計画通りに実現しなかった。取手校地本体にとっては、バブル経済はむしろ公共事業であるキャンパス内の施設の工事を遅らせることとなった。その結果、校舎の完成をまった1991年10月に取手校地は開設式典を迎え、翌1992年4月の福利厚生施設の完成とともに本格的な利用が開始される。

 1980年代末から1990年代初頭にかけての、後にバブル経済として知られる好景気の最中、主に茨城県が主導した形で取手校地の開校と関連付けた開発構想が複数確認される。後にバブル経済による好況感のピークであったことが判明する1990年1月*217に発行された『茨城未来戦略 夢と緑のスーパーエリア』では、茨城県知事の竹内が「『創造性豊かな茨城づくり』をすすめていき、21世紀日本のリーディング県として茨城を発展させ」*218るとの意気込みを語っている。竹内は1990年6月にも、前年である1989年の12月に東京芸大の学長に就任したばかりの平山と対談し、「文化のリーディング県」を目指していることを述べたうえで、東京芸大への期待と可能性、そして関連する3つの構想を公表している*219。そして、平山とともに、国際的な科学技術都市として完成したつくばに次ぐ国際的な芸術都市を取手校地の周辺に生み出す決意を表明している*220。具体的な施策として、竹内は既に取手市長の菊地の発言として紹介した、取手駅からキャンパスまでの道路における作品展示が行なえる広場の設置、そして「取手アルスの森」と名付けられた公園緑地の整備の2つを紹介している*221。これは前述の通り、竹内が1987年2月に県議会に対し「キャンパス周辺を芸術の香り高い都市緑地として整備していく」*222とした方針を具体的な構想に落とし込んだものである。また、この対談で平山は上野では土地が狭く開催が困難な国際展覧会を茨城県であれば実現できると発言、キャンパス周辺を各国からの芸術家が滞在し必要に応じ芸大の設備が使えるような解放されたスペースにすることを提案する*223。竹内はこの提案に賛同し、これが3つ目の施策である、国際芸術家村の構想となる。このように知事の竹内を中心に、茨城県の芸術・文化振興施策として複数のプロジェクトが取手校地周辺で構想されていた。

 これらの3施策はそれぞれ「芸大ブールバール(芸術の小道)等整備事業」「芸大緑地(アルスの森)の整備」「アーカス(国際芸術拠点整備)構想」として実現している*224ものの、この当時の構想とは大きく異なるものとなった。この背景には景気後退の他にも、これらの構想を推進していた竹内が1993年7月にゼネコンからの収賄の疑いで逮捕され*225、翌8月には辞表を提出する*226など、開発を推し進めた竹内県政の終焉とそれに対する反動も作用したものと推察される。「芸大ブールバール」については、県道沿いに並木道の整備が行なわれた一方で、その内容は最終的には安全な歩道の整備が主となった*227。「アルスの森」の整備については当初敷地として約28haが構想されていたが、地価高騰で用地取得が進まず*228*229取手市小文間地区内の「アルスの森サクラ公園」(0.5ha)と「アルスの森アジサイ公園」(0.4ha)の開設にとどまった*230。「アーカスプロジェクト」は、自治体を通じて文化庁の支援を受けたアーティスト・イン・レジデンス事業として日本で最初期のものとなり*231、2020年現在も茨城県守谷市での活動が続けられている一方で、取手市内での実現はなされなかった。このように、実現したものは、現状としては竹内と平山との対談で議論されたような壮大な構想からはほど遠いものであると言わざるを得ないだろう。

 一方、東京芸大のデザイン科の教授であった内山昭太郎*232の私案が茨城県の構想と結びついて生まれたのが「映像未来都市」の構想である。これは1988年、通商産業省産業政策局が斜陽化する映画産業を活性化するために構想していた、映像スタジオ、観光施設および映像技術に関する施設から成る新しい映画村、「映像メディアコンプレックスパーク」を茨城県が誘致したことに始まる*233。しかし主要映画会社がスタジオの移転に難色を示し計画が凍結していたところ*234、中小企業庁の「映像文化センター」構想、そして東京芸大の取手校地開校とそこで映像芸術の研究が行われる構想が交わり、「映像未来都市」構想として1990年に策定される*235。概要として次のような説明がなされている。

『映像未来都市構想』は、映像・音響ソフト、デザインに関する研究開発機能、新商品・新事業開発機能、制作・販売機能が一同に集積し、さらに研究者や制作者のための住居とその環境(都市機能、アメニティー機能)を有している。*236

 具体的には、映像・音響ソフトに関する研究開発や人材の育成・交流施設、関連事業の企業化の育成支援機能からなる「リサーチパーク」、映像・音響ソフトや関連するデザインの製作・流通拠点「ビジネスパーク」、SFXを目玉とするテーマパーク、芸術家や文化人、デザイナーや学者をターゲットとした「アーチストタウン」、そして取手競輪場がリニューアルされた多目的ドームなどの施設が、東京芸術大学の教育研究と結びつき映像技術に関する共同研究施設としての「映像未来都市」を実現する、という構想である*237。まず注目すべきは、世界最大級とも報道された*238そのスケールの大きさである。全体面積48.49haの都市が取手校地の北側、小文間から藤代町(当時)の神之浦地区にかけての水田地帯に建設され*239、住居は都市機能を含め約20haに約300戸、テーマパークは15haで年間入込数目標を100万人とするものである*240。また、その予算のスケールも大きい。1991年1月にはこの構想に日立製作所、三井不動産、安田信託銀行などの民間企業二十社前後に国、県などがおよそ2億円を出資、翌年度から調査に入り、総工費は約1,500億円と報じられている*241。内山は、東京芸大には映像分野の研究を新たに担当するために招聘*242、初の視覚デザインの専任教授に就任した*243という経緯をもっており、この構想を検討した「ブレーンハーモニー構想調査委員会」の委員長を務めた。また、委員長の内山のほかに音楽学部教授であった南弘明*244も名を連ねており、この構想に美術・音楽の両学部が深く関わっていたことがうかがえる。2004年の国立大学法人化以前に東京芸大の教授が民間企業をとりまとめた構想が生まれていたことは、開校前後の取手校地とその周辺があらゆる先駆的な取り組みや検証の舞台であった一つの証左と言えよう。

 しかしこの「映像未来都市」も、実現はしたものの、当初構想とは大きく異なる結末をたどった。1991年3月には建設候補地の地権者に対する説明会が行われるも、その多くを占める農家を中心に、生活の維持が困難になることを理由とした建設反対の声が相次いだ。*2451991年9月の時点で構想は早くも取手校地と隣接した小文間地区から、直線距離でも10km以上離れた伊奈町(当時、現つくばみらい市)に変更され*246、1994年には取手競輪場の改装も含め、取手市内での事業化は経済事情から困難とされた*247。最終的にこの構想は紆余曲折を経て2000年、伊奈町に総面積9.7haの「ワープステーション江戸」が開園する*248かたちで一応は施設として設置されたが、2年後の2002年には早くも運営する第三セクターが破綻*249、のちにはNHKの関連会社に売却され、施設の一般公開は2020年3月をもって終了している*250。また、このワープステーション江戸で実現した映像関連施設も、撮影用のオープンセットと簡易スタジオのみであり*251、内山が構想したような研究拠点がここで生まれることはなかった。

 さて、完成間近となった取手校地であったが、こちらもバブルの影響を受け、ほぼすべての施設の工事が遅れていた。一部の施設については開設式典後の完成となったが、これらも含めた最初期の取手校地の施設についてここで述べる。これらの施設の工事の遅延には、好景気による建設労働者の確保難と建設・設備投資ラッシュに加え*252、事前に予算が立てられる公共事業では工費の値上がりに追いつかず、建設業者にとって採算が合わない*253という理由があった。これは取手校地に限った事情ではなく、他の公共事業では入札不調から単価の見直しも行われていた*254が、取手校地の建設にあたってはキャンパスの使用開始のタイミングを遅らせる対応がなされた。取手校地で最初に竣工した建物である共通工房は1990年3月に完成しており*255、4月からの使用開始が予定されていたが、排水処理施設工事の遅れで実際には同年の10月にずれ込むこととなった*256*257。また、1991年4月の授業開始に向けて完成を見込んでいた専門教育棟は、1990年3月末に実施した競争入札で落札する会社が出ず、随意契約で従来より東京芸大の工事を担当していた鴻池組が請け負うことになった*258。この専門教育棟は1991年9月には完成したものの、本格的な利用は食堂や売店が入る福利厚生施設の完成が見込まれる翌1992年4月の開始とされ*259、それすらも遅れる可能性から一時は1992年の夏以降の授業開始も検討された*260。最終的には1992年4月13日にオープンし、この日に取手校地における授業が、新1年生と大学院生を対象に初めて開始されることとなった*261

 一方、これらの遅延に対し、ほぼ予定通りに完成した唯一の施設は、取手校地の構想の初めに藤本が提案した、登り窯であった。1990年12月12日に火入れが行われ、芸大の関係者や地元住民らが完成を祝った後、学生や地元住民の作品が入れられた*262。このように、共通工房(1990年10月)、登り窯(1990年12月)、専門教育棟(1991年9月)、そして福利厚生施設(1992年4月)の順で取手校地の最初期の施設が揃うことになった。

 取手校地の開設式典は1991年、開学記念日である10月4日に行なわれた。その6カ月前の1991年4月には招待者、記念碑、奏楽、除幕式、記念品、そして感謝状について検討されている*263。このうち、記念碑は表に学長が「理想」の文字を、裏には地権者の氏名が入れられること、奏楽については金管打の教官16名がファンファーレを行なうことになどが決められた*264。佐藤によれば、名前が石碑に刻まれていることやファンファーレについて地権者には事前に知らされておらず、当日、除幕とともに披露された*265。この時に驚きの表情を浮かべながら自身の名前を確認するために石碑の裏にまわる地権者たちの写真が、取手市役所に残されている*266。また、美術学部の教授であった西大由*267は地権者に、取手校地の敷地内で拾った野ブドウをモチーフとしたネクタイピンを贈っている。この式典の実施に取手市役所職員として尽力した佐藤は、一般的な用地買収の式典では地権者には感謝状を渡すのみであるところ、共通工房を活用した石碑や記念品、音楽学部の演奏など、東京芸大だからこそ行なえたと述懐している*268

2ー8.『検討され続けた音楽学部の取手構想』にすすむ

2ー6.『二転三転する取手利用計画』にもどる

目次にもどる

脚注
*217 小峰隆夫.『「バブル/デフレ期の日本経済と経済政策」第1巻「日本経済の記録-第2次石油危機への対応からバブル崩壊まで-」』,(東京:内閣府経済社会総合研究所,2011),375頁.
*218 日本地域社会研究所.『茨城未来戦略 夢と緑のスーパーエリア』,(東京:日本地域社会研究所,1990),43頁.
*219 “つくば美術館開館記念対談 芸術が都市をひらく”『いはらき』(朝刊),1990年6月8日.,11頁.
*220 Ibid.
*221 Ibid.
*222 茨城県議会.『県議会時報』(No.105),1987年6月20日.,9頁.
*223 “つくば美術館開館記念対談 芸術が都市をひらく”『いはらき』(朝刊),1990年6月8日.,11頁.
*224 映像未来都市研究会.『映像未来都市 事業化計画調査報告書』,(東京:映像未来都市研究会(株式会社 都市未来総合研究所),1993),6頁.
*225 “竹内・茨城県知事を逮捕 ハザマから1000万円収賄容疑 東京地検”『朝日新聞』(朝刊),1993年7月24日.,1頁.
*226 “竹内茨城県知事が辞表 ゼネコン汚職事件 東京地検”『朝日新聞』(夕刊),1993年8月6日.,1頁.
*227 “主要地方道取手東線歩道設置事業,”茨城県ウェブサイト,茨城県,2020年12月4日閲覧.https://www.pref.ibaraki.jp/doboku/ryudo/doni/011-torideazuma-hodou.html
*228 “利根の河原に芸術の香り「東京芸大進出」で「競輪」の取手が変身”『朝日新聞』(夕刊),1990年12月5日.,らうんじ面.
*229 佐藤清氏と筆者とのインタビュー,2020年2月.
*230 “公園ウォッチ報告,”ネットとりで生活者ネットワーク,とりで生活者ネットワーク,2020年12月6日閲覧.http://torinet1015.sakura.ne.jp/tyosa/park.pdf
*231 廣瀬敏史,”アーティスト・イン・レジデンスを通したアートと地域の関わり~ドイツL市の取り組みと実践からの考察~”,『東海学院大学紀要』8(2015年3月31日).,240頁.
*232 内山昭太郎。1987年より1999年まで東京芸大美術学部教授。
*233 映像未来都市研究会.『映像未来都市 事業化計画調査報告書』,(東京:映像未来都市研究会(株式会社 都市未来総合研究所),1993).
*234 “県の映画村構想、新展開 映像文化センター案浮上(リポート・茨城)”『朝日新聞』(朝刊),1990年8月21日.,茨城面.
*235 ブレーンハーモニー構想調査委員会.『平成2年度茨城県委託調査 映像未来都市構想』,(n.p.,1990).
*236 ブレーンハーモニー構想調査委員会.『平成2年度茨城県委託調査 映像未来都市構想』,(n.p.,1990).1頁.
*237 Ibid.
*238 “日立・通産省・茨城県…取手に映像研究施設、300組織結集――東京芸大を中核に”『日本経済新聞』(朝刊),1991年1月29日.,11頁.
*239 ブレーンハーモニー構想調査委員会.『平成2年度茨城県委託調査 映像未来都市構想』,(n.p.,1990). 3,5頁.
*240 Ibid.,2頁.
*241 “日立・通産省・茨城県…取手に映像研究施設、300組織結集――東京芸大を中核に”『日本経済新聞』(朝刊),1991年1月29日.,11頁.
*242 社団法人いばらきニュービジネス協議会.『映像未来都市研究会後援会記録-映像未来都市構想について-』,(n.p.,1991).6頁.
*243 東京芸術大学.『内山昭太郎 退官記念展 電視劇場』,(東京:東京芸術大学,1998).
*244 南弘明。1982年4月より2002年3月まで東京芸大音楽学部教授。
*245 “「映像未来都市」期待と困惑 取手市・藤代町(ずーむアップ) 茨城”『朝日新聞』(朝刊),1991年3月16日.,茨城面.
*246 社団法人いばらきニュービジネス協議会.『映像未来都市研究会後援会記録-映像未来都市構想について-』,(n.p.,1991).6-9頁.
*247 “取手競輪場ドーム化構想困難に 県「採算性、住民理解に問題」/茨城”『朝日新聞』(朝刊),1994年6月20日.,茨城面.
*248 “江戸文化知る歴史公園完成 伊奈町 /茨城”『朝日新聞』(朝刊),2000年4月12日.,35頁.
*249 “県の三セク、初の破綻 伊奈町の「ワープステーション江戸」/茨城”『朝日新聞』(朝刊),2002年7月26日.,31頁.
*250 “ワープステーション江戸,”ワープステーション江戸,NHKエンタープライズ,2020年12月4日閲覧.https://www.warpstationedo.com/
*251 Ibid.
*252 “公共工事、軒並み遅れる 労働力の不足深刻(スクランブル) 茨城”『朝日新聞』(朝刊),1990年10月27日.,茨城面.
*253 “教育棟完成に遅れ、入札不調など響く 東京芸大取手校舎”『朝日新聞』(朝刊),1990年6月20日.,茨城面.
*254 “公共工事、軒並み遅れる 労働力の不足深刻(スクランブル) 茨城”『朝日新聞』(朝刊),1990年10月27日.,茨城面.
*255 東京芸術大学事務局.『東京芸術大学学報』288号,1990年12月15日.,1頁.
*256 “教育棟完成に遅れ、入札不調など響く 東京芸大取手校舎”『朝日新聞』(朝刊),1990年6月20日.,茨城面.
*257 “利根の河原に芸術の香り「東京芸大進出」で「競輪」の取手が変身”『朝日新聞』(夕刊),1990年12月5日.,らうんじ面.
*258 Ibid.
*259 “芸大取手キャンパスが10月4日に完成 映像芸術の“殿堂”に 茨城”『朝日新聞』(朝刊),1991年9月26日.,茨城面.
*260 “芸大取手キャンパス、4月開校は無理? 厚生施設完成遅れ”『朝日新聞』(朝刊),1992年3月14日.,茨城面.
*261 “未来の画家の語らいの輪 芸大取手キャンパスで院生1年生授業始まる”『朝日新聞』(朝刊),1992年4月14日.,茨城面.
*262 “登窯の技術を科学的に分析へ 期待背に初の火入れ 東京芸大取手校舎”『朝日新聞』(朝刊),1990年12月13日.,茨城面.
*263 東京芸術大学音楽学部.1991年4月11日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.
*264 東京芸術大学音楽学部.1991年7月4日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.
*265 佐藤清氏と筆者とのインタビュー,2020年2月.
*266 “平成いまむかし 芸大誘致 アートの街に”『読売新聞』(朝刊茨城版),2018年5月1日.19頁.
*267 西大由。1978年より1991年まで東京芸大美術学部教授。
*268 佐藤清氏と筆者とのインタビュー,2020年2月.