2ー8.検討され続けた音楽学部の取手構想

 ここまではほぼ美術学部の構想や関係者を中心に取手の利用計画について述べてきたが、音楽学部においても、当時の教授会記録から取手進出に向けた動きを追うことができる。

 東京芸大として取手への進出が決定した1984年以降、音楽学部では取手での利用計画が検討されており、取手市民との交流事業も美術学部に先んじて行なわれていた。1984年6月には音楽学部としての第2校地利用計画委員会が結成され*269、7月には早速他大学の音楽ホールの見学が予定される*270など、早くから第2キャンパスの利用に向けた検討が進められている。11月に「音楽研究総合スタジオ」の案が両学部による第二校地整備計画小委員会に提出された*271ことを起点に、施設などの具体的な利用計画が練られてゆく。また、1985年度概算要求として提出された「第2キャンパス使用計画表」は「芸術教育研究の計画的拡充整備についてー第2キャンパス構想を中心としてー」の最終答申の付属資料として作成されたものだが、ここにもオペラ、器楽および邦楽の学部生が練習や講義、楽理の学部生は「民族音楽」の研究のために通年使用される計画が記載されている*272。一方、第2キャンパスが置かれる取手市との交流事業は、1986年1月の婦人学級および3月の市民音楽祭での演奏のために音楽学部の学生の派遣がなされた*273ことに始まる。また、同年に取手市民を中心に結成された「第九」の合唱には東京芸大の教官による指揮とオーケストラが参加し*274、市民に強い印象を残している*275。このように、取手の第2キャンパスの設置に対し、音楽学部は決して消極的ではなかった。

 しかし、音楽学部としては上野校地における新奏楽堂の構想や、美術学部との合同施設についての話し合いがまとまらなかったこと、そして各教官レベルでは、レッスンや演奏会の多い都心に位置する上野校地から取手に完全移転する負担が大きいという事情もあり、大々的な施設計画は整備基本方針において具体化しなかった。1986年5月に第2校地利用計画委員会は、奏楽堂の建設と第2キャンパスの建設が重なった場合について話し合い、いずれも要求するものの、音楽学部としては奏楽堂を中心に考えていくという結論に至った*276。また、取手の広い敷地を利用するメリットが比較的大きい美術学部との調整も難航する。1986年5月の臨時評議会で、芸高の移転先を取手ではなく上野の現体育館に変更する学長提案があり*277決議がなされる*278と、その分の取手の用地を活用するための国際交流センターの計画が浮上し、学長、両学部の学部長及び教官、事務局長から成るワーキンググループが結成されるが、1986年11月の第1回会合、12月の第2回会合は共に結論がまとまらなかった*279*280。また、1987年2月の音楽学部教授会では、第2キャンパスの計画に音楽学部の意見が反映されておらず、敷地も美術学部の1/3しか与えられていないことなどへの疑問の声が上がり、第2校地の音楽学部関連の施設の着工より新奏楽堂の建設を優先すべきという意見も述べられた*281。その中でも、4月には第2校地利用計画委員長と第2校地整備計画小委員会委員に柘植元一が選出され*282、新たに音楽学部としての積極的な取手の利用構想案が作られ施設課に提出される*283。しかし6月の第2校地整備計画小委員会の審議で、新しい施設を作る際には講座全体が移転しないといけないという結論に至り、音楽学部からは音楽研究総合スタジオのみが、第2次施設として建設されることが計画案としてまとめられ*284、これを基に1988年、大学全体としての取手校地の整備基本設計が決定する*285。この際の経緯について、柘植はこのように述べている。

音楽学部としては1988年に「取出校地開設準備室」〔原文ママ、以降の「取出」表記も同様〕で電子音楽講座、オペラ研究部、邦楽、音楽教育センター、世界音楽研究センターの進出を検討しましたが、電子音楽講座は例外として、いずれの科も実際に取出に進出する意思はなく、あくまで「表向きに」な机上の計画でした。したがって、取出校地に音楽学部の施設整備要求をする段階には至りませんでした。
 〔中略〕
音楽学部の小泉文夫記念資料室の民族楽器コレクションを取出の資料館に移すという話もありましたが、これは小生が反対しました。楽器資料を取出に移転してしまうと、上野校地の楽器学の研究に差し支えるからでした。音楽学部の講義(大半がレッスンと合奏)と音楽学の研究活動を取出校地で行うという発想はそもそも無かったからです。*286

 柘植が述べているような「机上の計画」であっても進出の検討が続いた背景には、音楽学部として取手校地の計画を全く破棄してしまうという決断にも、また抵抗があったという事実がある。1988年4月には臨時教授会が開かれ、学部長による「取手校地に音楽学部はどう対処すべきか」という資料の配布、その後教授会構成員による自由な討議が行なわれ*287、これらを基に音楽学部は、歴史的経緯も踏まえ、取手校地進出に真剣に取り組むこと、視覚系と聴覚系が合わさった第3学部構想を推進すること、先陣を切って取手に進出する教官とそれを支援する教官のグループを組織しバックアップすることが決定された*288。しかしその後は、柘植が主張するように、実際に取手における音楽学部の施設が概算要求として提出されることは1991年の取手校地開校以降もなかった。一方で、1994年9月の音楽学部教授会では、同4月に学部長に就任した斎藤一郎*289が「各科の意見を側聞すると南教官を除き、本籍を取手校地に移される教官は、おられないと推察する」「現在までの取手校地利用計画は、具体策がなく白紙にちかい」*290として学長に報告を行いたいと発言すると、この場では、前述の通り芸高を財源として取手の用地が取得されたという経緯もあり、複数の教官から慎重に審議するように求める声が上がったことが記録されている*291。1995年4月には「音楽学部として最初に事務局に提出する取手構想の概算要求」*292として「電子芸術センター」についての審議があり、原案の通り承認される*293。これは、音楽学部の中でも取手への移転を検討していた南と、美術学部の内山の構想とが合わさり、音楽学部とは切り離された独立の組織として概算要求がなされたものであった*294。この構想自体が取手で実現することはなかったが、取手校地で美術学部と歩みを合わせて先鋭的な音楽表現について教育研究を行なうという発想は、2002年に取手校地で開設された音楽環境創造科(以下「音環」)に繋がるものであった*295。南が退官した直後の2002年4月に音環は第1期の受験生の出願を受け付けはじめ、その開設後、2006年の千住校地への移転まで音環のために使われていた場所には、偶然ながら音楽学部の施設が建てられるはずだった敷地上に存在したものも確認される。

2ー9.『学生に知らされなかった取手の構想』にすすむ

2ー7.『バブル経済に翻弄された取手開校』にもどる

目次にもどる

脚注
*269 東京芸術大学音楽学部.1984年6月14日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,4頁.
*270 東京芸術大学音楽学部.1984年7月5日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,3頁.
*271 東京芸術大学音楽学部.1984年11月8日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,7頁.
*272 東京芸術大学.『昭和60年度 施設整備及営繕関係概算要求書』,n.d.
*273 東京芸術大学音楽学部.1985年10月7日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,5頁.
*274 “「第九合唱団」が誕生 取手で市民中心に271人登録”『いはらき』(朝刊),1986年3月25日.,13頁(土浦圏版).
*275 取手市秘書広聴課『取手新風土記 取手市制施行20周年記念誌』(取手:取手市,1990),10頁.
*276 東京芸術大学音楽学部.1986年5月8日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,32-33頁.
*277 東京芸術大学音楽学部.1987年7月9日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,22-23頁.
*278 東京芸術大学百年史編集委員会『東京芸術大学百年史 音楽学部篇』(東京:音楽之友社, 2003), 1064頁.
*279 東京芸術大学音楽学部.1986年12月11日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,44-45頁.
*280 東京芸術大学音楽学部.1987年1月8日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,34-35頁.
*281 東京芸術大学音楽学部.1987年2月12日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,61-68頁.
*282 東京芸術大学音楽学部.1987年4月9日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,60-61頁.
*283 東京芸術大学音楽学部.1987年5月14日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,61-63頁.
*284 東京芸術大学音楽学部.1987年6月11日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,48-53頁.
*285 東京芸術大学音楽学部.1988年4月14日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.,45頁.
*286 柘植元一、筆者との電子メール,2020年10月.
*287 東京芸術大学音楽学部.1988年4月21日東京芸術大学音楽学部臨時教授会記録,n.d.,1,3-6頁.
*288 Ibid.,4-6頁
*289 斎藤一郎。1994年4月より2000年3月まで東京芸大音楽学部長。
*290 東京芸術大学音楽学部.1994年9月8日東京芸術大学音楽学部教授会記録,n.d.
*291 東京芸術大学音楽学部.1994年9月8日東京芸術大学音楽学部臨時教授会記録,n.d.,3-6頁.
*292 東京芸術大学音楽学部.1995年4月13日東京芸術大学音楽学部臨時教授会記録,n.d.,2頁.
*293 Ibid.
*294 Ibid.
*295 東京芸術大学.『平成14年度 歳出概算要求書(国立学校)』,2頁.