2ー9.学生に知らされなかった取手の構想
1980年頃より教職員の間において盛んに議論がなされた東京芸大の取手進出は、1980年代末には同大学の学生も知ることとなり、関心も高かったが、その構想について明確な説明はなされなかった。美術学部学生自治会の学生は、1988年6月に「取手校地構想」に関する質問、要望を学生課に対し申し入れたほか*296、8月には取手市役所を訪問し、説明を求めていた*297。また、その過程で生じた芸高の移転についても質疑、要望を提示している*298。また時期は不明ながら音楽学部学友会執行部も「取手移転問題についてのアンケート」を作成している*299。1989年12月には、芸高移転による体育館廃止計画の撤回を求める請願書が美術学部学生自治会、音楽学部学友会、クラブ長会議の連名で提出されており*300、評議会にて取り上げられている。筆者が資料調査を行なった1980年度以降、この時点まで評議会の場において学生自治会の活動が議題に取り上げられることは一切なかったことから、当時の学生にとって取手校地の開設は特筆すべき関心ごとであったとうかがえる。この時期に自治会委員長を務めていた陣内雄*301は筆者とのインタビューにおいて、こう振り返る。
取手の話は学生の中でも、どうなるのよ、というのは皆言っていた。よって、説明してもらうのは自然の流れと考えていた。話し合ったのかどうかは憶えていないが取手に進出する計画は皆知っていて、知らないという人は恐らくいなかった。だが、なんで取手なの?ということが周知されておらず、〔学生としての〕生活として、〔取手校地と〕行ったり来たりなのか、行きっぱなしなのかわからなかった。噂として先生に聞いたらこう言ってたよ、という感じで広まっていた。自分たち〔の学年は取手校地の使用が開始される前に〕は卒業するので関係ないのだが、それにしても、それはないでしょう、という感じ。まあ自分は関係ないという人、別にいいのではないか、という人もいたが、まともに考えてる人からは、ちょっと情報なさすぎだよね、わけわかんないよね、という意見が上がっていた。今でも自分がそういう思いのままということは、明確な回答はされなかったのだと思う。*302
陣内が述べる通り、学生の側からみたときに学生生活において取手校地の設置がどういった意味を持つかは、開校まで、あるいは開校以降も、答えが出されなかった。そして陣内が懸念していた通り、これはその後実際に取手校地に通うようになった学生にとって特に大きな問題となった。大学側の動きが公文書を通じ辿ることができるのに対し、学生の意見は文献などには残されておらず把握することは困難だが、数少ない資料として、取手校地開校後の1994年9月に、東京芸大の学生が発行した「芸祭」のパンフレットの中の記事がある。ここでは、デザイン科の2年生が学生の現状や意見をまとめた調査結果を発表し、大学に対し改善を要望している。具体的には、上野でのみ開講される授業が多く教職教科の修得が困難であるというカリキュラム上の問題、取手が遠く6割以上の学生が通学に2時間前後かけているという立地の問題、これと関連する定期券の費用や、食事をする場所が大学の周辺になく食費もかかるという金銭面での問題、そして何より他の科や上級生とのつながりがないという人間関係における問題が挙げられている*303。ただし、特にこの最後の点については教官も気にかけていたことがうかがえる。この同じ年の「芸祭」のパンフレットにおいて、美術学部長の澄川喜一*304の挨拶では、取手校地で授業を展開している1年次の学生にふれ、「他科の友人や先輩達と交流し楽しい時が持てることと思います」*305と述べている。また、この前年である1993年、そして取手校地が開校してすぐの1992年の芸祭の挨拶でも同様に取手で授業を受けている学生に、芸祭の場での交流を促している*306*307。一方で、前述のデザイン科2年生による記事では、取手校地に既に1年間通学した学生の現状を説明する注釈として、「過ぎ去った時間は、もどらない」*308と記載されている。取手校地の計画から現在まで、教職員のみならず学生の間でも、数多くの意見が交わされてきたことは、想像に難くない。取手校地の開校が東京芸大の学生の学生生活や制作にどのような影響を及ぼしたかについては、今後も引き続き調査が求められる。
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脚注
*296 東京芸術大学.1988年6月16日東京芸術大学評議会議事要録,n.d.
*297 取手校地開設準備室.『取手校地開設に関する諸問題について』(1988年9月22日東京芸術大学評議会議事要録より),1988年9月19日.
*298 東京芸術大学.1988年12月15日東京芸術大学評議会議事要録,1988年12月16日.
*299 野口羊, Twitterへの投稿, 2015年6月29日12:38 p.m., https://twitter.com/ngsh44/status/615363617328730112
*300 『体育館廃止計画の撤回を求める請願書』(1990年1月25日東京芸術大学評議会議事要録より),n.d.
*301 陣内雄。東京芸術大学建築科に在籍中の1988年より1989年まで、美術学部学生自治会委員長。
*302 陣内雄氏と筆者とのインタビュー,2020年9月.
*303 東京芸術大学芸術祭実行委員会.“特集B 取手芸大”.『芸祭 (THE 4DAYS, ART FESTIVAL 1994 SEPTEMBER 15-18)』,1994年9月.,22頁.
*304 澄川喜一。1989年12月より1995年12月まで東京芸大美術学部長、その後2001年12月まで学長。
*305 東京芸術大学芸術祭実行委員会.“美術学部長 澄川喜一”.『芸祭 (THE 4DAYS, ART FESTIVAL 1994 SEPTEMBER 15-18)』,1994年9月.,2頁.
*306 東京芸術大学芸術祭実行委員会.“美術学部長 澄川喜一”.『芸祭 (UR)』,1993年9月.,4頁.
*307 東京芸術大学芸術祭実行委員会.“美術学部長 澄川㐂一”.『芸祭 (ART FESTIVAL 1992)』,1992年9月.,4頁.
*308 東京芸術大学芸術祭実行委員会.“特集B 取手芸大”.『芸祭 (THE 4DAYS, ART FESTIVAL 1994 SEPTEMBER 15-18)』,1994年9月.,22頁.