Toride30

2021年10月6日より藝大食堂(取手校地内)で展示中

1.取手の由来
2.中妻貝塚
3.福永寺/小文間の由来
4.小文間城
5.相馬二万石
6.春日神社
7.小文間小学校
8.明星院の雨獅子
9.戸田井橋
10.らいてう居住地
11.取手二高
12.取手校地概要
13.共通工房
14.映像未来都市
15.「理想」碑
16.バス
17.食堂
18.創作展
19.美術館
20.メディア棟
21.アートパス
22.小文間5000番地
23.葉梨議員
24.夕陽
25.アートビレッジ
26.白山神社
27.ホームレス山
28.鴨池
29.三佐男さんアトリエ
30.30年

1.取手の由来
■地図(大鹿城)
「取手」の地名の由来は、取手競輪場の場所にあった大鹿城の「砦」からきているというのが有力説。小文間地区は、1955年に取手町に合併されるまで長らく独立した村だった。それもあってか、駅前と小文間では雰囲気が違う気がする。

余談:江戸時代より前は、小文間はむしろ東側に隣接する現在の利根町近辺との結びつきが強かったともされる。1630年に戸田井と羽根野の間が人工的に開削されるまでは東側の台地と陸続きで、「文間」「北文間」「東文間」「文(ふみ)」などの地名や蛟蝄神社(こうもう神社)など、「小文間」との関係性を想起させる。

2.中妻貝塚
■地図(中妻貝塚)
取手校地がある小文間には、いくつもの縄文遺跡が存在する。その中でも特に有名な中妻貝塚は明治時代から発掘調査が行われつづけ、お墓だけでなく、土器や土偶、住居や工房まで見つかっている。小文間は縄文時代から、芸術家を惹きつける土地なのかもしれない。

余談:中妻貝塚の発掘報告書には、発掘された陶器や人骨について詳細にわたり図像とともに記録が掲載されている。その存在は早くから知られており、1905年の朝日新聞の記事では上野駅から取手駅を経由して中妻貝塚に向かい、現地の建具屋や駄菓子屋と協力して発掘をおこなった様子が事細かに記述されている。

3.福永寺/小文間の由来
■地図(福永寺)
取手校地がある「小文間」の由来には諸説ある。その一つは、江戸中期に近隣の「北文間」「東文間」の各村と合わせるために「小文間」になる以前は「小紋間」と書かれ、824年に福永寺の毘沙門天が海中より現れた時に、夜空の模様が「小紋」のようだったというもの。

余談:東京芸術大学のウェブサイトにおける取手キャンパスの記事では「小門間」との表記があるが、歴史上の記述を含め「門」という字を用いてこの地名が書かれたことはなく、誤記であろう。

4.小文間城
■地図(南会館、一色氏のものとされる墓が隣接)
取手校地がある小文間にはお城があった。室町幕府の重臣、一色宮内が関東に下向後、この地に居座って建てた。1561年に近隣の大鹿城を攻略するも、大鹿の同盟軍に周りから攻め込まれ落城。小文間には一色氏のものとされる墓石がある。

余談:小文間に城は複数存在したとの説もある。小文間城址として発掘調査が行われたのは南会館付近であるが、このほかに小文間の西端に「城根」、現在の日鉱団地北川に「城ノ内」の地名があり、その存在をうかがわせる。

5.相馬二万石
■地図(相馬二万石一帯)
取手校地がある小文間の北側に広がる田園風景は「相馬二万石」として知られる。以前は湿地帯だったが、1630年、岡堰の完成で一大穀倉地帯となり、今日に至る。澄んだ冬晴れの日には、筑波山を背に素晴らしい景色をみせる。

余談:岡堰の完成はより大きな江戸幕府の利根川東遷事業の中で実現した。

6.春日神社
■地図
取手校地がある小文間の春日神社は1702年創建。その鳥居の右側の青面金剛像に隠れキリシタン信仰の十字架が隠されている説がある。江戸中期、治水工事で多くの労働者が小文間に入植した際に移ってきた人の中に密かに拝んだ人達がいたのかもしれない。

余談:はっきりと小文間に隠れキリシタン信仰が存在したことを裏付ける証拠は見つかっていないが、小文間と同様に伊奈半十郎忠次によって治水工事が行われた現在の埼玉県幸手市では1820年に作られた「マリア地蔵」が存在する。

7.小文間小学校
■地図
取手校地の隣の小文間小学校は、1873年に開校。2015年に閉校したが、2021年時点で藝大よりも長い142年間の歴史をもち、取手市でも最も古い小学校の一つだった。小文間が昔から教育熱心な地域だったことがうかがえる。

余談:小文間小学校は幾度にわたり移転を繰り返しているが、開校時は戸田井の白山神社に隣接した西光院という寺院で授業が行われた。開校120年に際して作られた記念誌がその歴史について詳しい。

8.明星院の雨獅子
■地図
取手校地のある小文間には、1917年まで雨乞いの行事があった。「雨獅子」といい、笛、太鼓、舞方と、実際は龍の頭をした大・中・女獅子、数匹の遊獅子が呪文を唱えた。お面の一つは今も明星院というお寺で保管されており、たまに引っ張り出してみると、やはり雨が降るとのこと。

余談:小文間の雨獅子はのちに東京芸術大学美術学部先端芸術表現科の学生(当時)のユニット「アイバンドウ」が作品化して発表している。

9.戸田井橋
■地図(二万石そば店)
取手校地のある小文間と隣接する利根町を結ぶ戸田井橋は1935年に開通した。この記念品として、地元の画家、小川芋銭が描いた絵の扇子が配られた。小文間の戸田井地区のお蕎麦屋さん「二万石」のお座敷でこの絵を見ることができる。

余談:小川芋銭の扇子は戸田井橋開業の式典には間に合わず、後日配布された。大利根橋の開業時にも扇子を作成し配っている。

10.らいてう居住地
■地図
取手校地のある小文間の戸田井地区には、平塚らいてうと夫で洋画家の奥村博史、ほからいてう一家が1942年から1947年まで住んでいた。彼らは住まいをフランス語のビアン(良い)から「眉安荘」と名付け、雪ちゃんという山羊を飼った。地元ではこのことをまだ憶えている人もいる。

余談:小文間に居住していた時の情景を平塚らいてうは「戸田井雑吟」というシリーズで俳句として発表しているほか、奥村博史も油絵として残している。

11.取手二高
■地図
この取手市小文間の土地に藝大が建設されることが正式に決定したのは1984年。夏の高校野球選手権大会で取手二高が決勝戦でKKコンビ擁する強豪PL学園を破って優勝した年でもあった。キャプテンの吉田剛選手は小文間出身。
余談:KKコンビとはPL学園高等学校野球部の清原選手・桑田選手のこと。このうちキャプテンだった桑田選手は、勝負のこだわりで厳しい練習に耐えてきた全寮制のPL学園が、笑顔を見せながら「のびのび」野球をする県立の取手二高になぜ決勝戦で敗れたのかを知るため、寮を抜け出し取手を一人訪れて、キャプテン吉田選手の家に泊まったという。違う野球観にふれ、スポーツの原点は楽しむことだと思い出した桑田選手は、その後自身の部活でも新たな試みを取り入れて伝統を改革し、更には人生観を大きく変えた。なので、のちに桑田選手の息子である人気タレントMattさんのユニークな性格を生んだきっかけは、実はこの小文間の土地にある…のかも。

12.取手校地概要
取手校地は当初芸大100周年の1987年開校を予定していた。ところがそのための財源の出どころや、どの科が移るかを巡り学内で大論争が発生。バブル経済による入札不調の影響もあり、正式な開校は1991年までかかった。

余談:取手校地の財源となったのは、当時神田駿河台にあった通称「お茶の水校地」で、東京芸術大学の音楽学部附属高校の校舎があった。

13.共通工房
取手校地で最初に完成した校舎、共通工房は1990年10月に美術学部に移管されている。当初計画は金工、木材造形、塗装造形、石材に加え、窯業、染織繊維、版画印刷、樹脂成型、映像、環境実験、機器実験、絵画材料の12工房と壮大。

余談:現在存在する「ガラス工房」は当初の構想には含まれていなかった。

14.映像未来都市
1990年前後、取手校地を拠点とする「映像未来都市」を小文間に建設するデザイン科・内山教授の構想が、茨城県や民間企業と合わさり研究・流通拠点、テーマパーク、アーティスト向け団地から成る計画として進められていた。景気悪化と地権者の反対で実現しなかったが、バブリーな完成イメージ図は一見の価値あり。

余談:完成予想図を含む計画書は茨城県立歴史館で閲覧ができる。

15.「理想」碑
取手校地の開校式は1991年10月4日に行なわれた。キャンパス内の連絡橋の脇にある平山郁夫の字の「理想」という石碑もこの日お披露目された。その裏には土地を提供した人の名前が刻まれてあり、これを知らされていなかった地元の出席者へのサプライズだった。


16.バス
取手校地と取手駅を結ぶスクールバスは1992年4月から運行が開始されたが、一日5往復しかなかった上にモデル優先で満員時学生は乗れなかった。2021年10月現在、平日にキャンパス構内に乗り入れる大利根交通バスは取手駅発26便、取手駅行が31便。便利になった。

17.食堂
取手校地の食堂は1992年4月に完成し、同時に学部の新1年生の授業が開始された。かつての名物には、「ポパイ丼」という鶏から揚げとほうれん草の卵とじ、それと「オリーブ丼」、こちらは詳細不詳。食べたことあるよという方、ご連絡ください。

18.創作展
1992年12月に第一回「創作展」(2003年以降は「アートパス」)が取手校地で開かれ、一般公開された。この時の様子は『茨城県だより No.160』としてYouTubeで公開されており、まだ新しい校舎やキャンパスの様子を映像で見られる。

19.美術館
大学美術館取手館は、芸術資料館取手館として1994年9月に完成。翌1995年2月号の雑誌『新建築』ではカバーを飾り、特集記事で美術館に埋め込まれている27人の作家の作品が紹介されている。あなたはいくつ見つけられるでしょうか。

20.メディア棟
取手校地のメディア教育棟は、専門教育棟側の第Ⅰ期部分が2001年10月に、残りは翌年に竣工した。当時、先端芸術表現学科が意識していたコンピュータメディアを建築にも反映したらしい。計画時の通称は「mutual medium ACAMEDIA」。

21.アートパス
2002年に新設された音楽学部音楽環境創造科(音環)は、当初取手校地を拠点としていたが、2006年に千住校地に移転した。「アートパス」という名称は音楽学部も参加するのに「創作展」はどうか、ということで、音環の第一期生が応募したものが採用されて生まれた。

22.小文間5000番地
取手校地の住所「小文間5000」は建設にあたり買収した多数の土地の番地の中から、単純にキリが良いのが選ばれた。かつては山林と畑があり、地元の子供たちが遊んでいた土地だった。火葬場だったの噂もあるが、住民や市の関係者の話にはなく、所謂都市伝説である。

23.葉梨議員
取手校地の誘致には地元出身の葉梨信行元衆議院議員が深く関わった。葉梨氏と旧制高校で同期だった人物が藝大事務局長を務めており、「上野が手狭になった」と聞いて取手を勧めたのがきっかけ。その後、取手市長と藝大関係者の間もつなぎ、視察を実現させた。

24.夕陽
取手校地が計画された最初期の1980年頃、取手市内には、小文間地区以外に2カ所、候補地があった。当時の藝大関係者は、民家から離れているため登り窯を建設できることと、利根川の夕陽の美しさに惹かれ、この小文間地区にすぐに決めたという。

25.アートビレッジ
取手校地に入って、橋の手前左にある建屋の名前は「アートビレッジ」。2010年、会計検査院から土地の未活用を指摘され、キャンパスに芸術家村を作る構想が立てられるも、この1棟が建って美術学部長が交代し、後に続かなかったという。

26.白山神社
この席のあなたにラッキー情報!取手校地の北東、戸田井地区の白山神社の甘酒を新年に飲むと、その年は風邪にかからないらしいですよ。現に作者は、2020年一度も風邪をひかなかった。明治期の職人、後藤縫之助の作と言われる本堂の木彫りも必見です。

27.ホームレス山
取手校地の南東の丘には、第二次世界大戦末期、兵隊30名ほどが敵機襲来を知らせる為駐留していたという。同じ山に2000年頃からはホームレスが居着き、一時期は十数人の集落をなした。今も若干名の方が生活を続けているようだ。2019年の小説『花折』にも登場する。

28.鴨池
取手校地の南の池では、毎年11月頃から2月頃まで、地元の方が野生の鴨の狩りをしている。この池周辺の6haは「特定猟具使用禁止区域」として、この一帯では唯一、銃を使わない猟であれば認められているエリア。鴨の多くは売るには小さく仲間内で召し上がるらしい。

余談:2019年~2020年シーズンまでは毎年狩りの用具を保管する仮の小屋が狩猟期間中は建てられていたが、2020年~2021年シーズン以降は確認されておらず、どうもこの狩りは今は行われていないようだ。

29.三左男さんアトリエ
取手校地のメディア教育棟のすぐ西にある黄色い小屋は、藝大の近隣に住む中村三佐男さんのアトリエ。70歳で絵を描き始めた中村さんは、利根川、筑波山、富士山の見えるこの地から描く風景が特にお気に入りだったが川に面した草木が伸びて今は見えなくなってしまった。

30.30年
2020年には取手校地が使われ始めて30年間、2021年10月には開設式典から30年間が経った。だが、取手、そして小文間という土地の長い長い歴史から見ればまだまだちっぽけな歴史だ。これからこの場所はどう成熟してゆくのだろう?


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